時計の逆回し・・・・・①
平成3年の秋に結成した石鹿太鼓遊友会は20年以上,
活動を続けてきました、設立当初は膳所商店街の商店主、
膳所小学校の先生、膳所市民センターの職員とまさに、
地元の有志ばかりでした。
和太鼓の経験者は誰もおらず、音楽経験者も二人という
超素人集団で太鼓を前にしても誰も叩きにいこうとしない、
恥ずかしがり屋ばかりでした。
それでも「膳所に新しい風を」という強い思いは全員が
持っていました。
新しい時代の舵は自分たちが取る、そんな自負がありました。
私もその一員でしたが、思いはあるものの音楽は聴くものという人間でした。
会を作った動機は「ふるさと創生事業」で全国の市町村に
使い道を指定せずに配分された1億円の事業を受けて
大津市では、その後の各学区に使途を決めずに1,000万円が
配られました、まさにバブルの産物です。
どう使うか、当然膳所学区でも議論がありました、新しいまちづくりに
向けてさまざまな意見が出ました、当時、商店街の理事長を務めていた
関係で会議に出席していたわけですが「何か新しいことをしたい」
そんなことを言った覚えがあります。
そうした声が届いたのか、1,000万円のうち800万円を太鼓のために
頂くことになりました、メンバー集めは手近なところで、そんなわけではないのですが
普段顔を合わす仲間とまちづくりをしようということで、先に書いた
メンバーになりました。
プロの太鼓集団に指導してもらいながら、
とりあえずは平成4年春の生涯学習センターの
こけら落としをデビューの場にしようと毎週月・木の二日練習に励みました。
手に豆はいくつもできましたし、バチは血で染まりますが、思うように
曲が叩けません、家では座布団を叩いたり、お箸で茶わんを叩いて
叱られたり、一通りメンバーは同じようなことを経験してきました。
徐々にではありますが、曲らしくなってきましたが、手の上げ下げや
移動のタイミングがずれています。
いつもいつもプロが指導に来るわけではありませんので、
それぞれがアドバイスしながらの練習で、あーでもない、こーでもないと
曲がりくねった道を歩んできました。
練習でのネックは音が出せないことです、太鼓にマットをかけて
練習しますが、マットを外して叩くとテンポが速くなりすぎて
バラバラになります、日曜日に膳所公園のステージでびわ湖に向かって
マットなしで叩いたことも何度かありました、冬のステージは風もありますし、
かなり寒かったのを覚えています。
練習風景をいくつかの新聞社に取り上げてもらったこともあります、
それを見て家族や周囲の人も「まじめにやってるんや」と思った
事でしょうし自分たちの励みにもなりました。
好きでやってるんでしょうと言われると返す言葉がありませんが、
始めたころはみんな壁の花状態だったのが、いつしか自主的に
叩くようになっていきました太鼓の面白さに魅了された、そういえば
大げさかもしれませんが音階があるわけでもない太鼓は強弱と
リズムのテンポで構成されます、自分だけが叩けても全員のリズムが合わないと
曲になりません、それでも時間が解決することが多いようで
プロが指導に来るたびに問題点を指摘しますが、その回数がだんだん
減っていきました。
そしていよいよ生涯学習センターの竣工式を迎えます。
イタリア製の生地でユニフォームを作り、いざ・・・・・・。
たった1曲の持ち曲ですが、精一杯演奏しました。
あの時の緊張感と達成感は人生最大のものでした。
ここまでは回顧です、まだ時計の逆回しまで行きません、
あと何回かお付き合いください。