両極

いとう茂

2014年12月30日 13:09

伊藤肇。
安岡正篤さんの一番弟子と自他ともに認める人です、
親父と同年代で苗字も同じということと文章にも
どこか遊びの部分があり理路整然としていて硬い文章の
安岡さんより親しみを持っています、確か50代で亡くなっている人で、
豪快な飲みっぷりと切れのいい語り口で今でも
多くのファンがいる人です。

その伊藤さんの言葉で、
「好きと嫌いとどれほど違う、ただで命やるほど違う」
短い言葉ですが核心を突いているように思います。

好きも嫌いも自分の心が決めることです。
あの人のここが好き、こういうところが嫌い、
そう言っているうちはおそらく本当に好きか嫌いかわかっていない、
伊藤肇さんはそう言いたかったのでしょうか。

私たちが車や電車で移動する際、すれ違う車の
ドライバーや電車の乗客の一人ひとりに対して好き嫌いの
感情を持っているわけではありません。

買い物に行ってもそこにいる買い物客や従業員の
すべてについても好き嫌いという気持ちはありません。

じぁ、好きという事はどういうことでしょう。
そして、嫌いということはどういうことでしょう。

電車の中でおばあさんに席を譲る青年を見て好感を持つ、
スーパーのレジで計算の遅い人を見ていやな列に並んだと思う。
これらは好きとか嫌いという感情とは少し違う気がします。

昔、好きの反対は嫌いではなく無視・嫌悪感と言った人がいました。
ちょっとひどいと思いましたがこれが本音でしょう。
好きも嫌いも無条件ということでしょうか、好きなものは何があっても好き
嫌いなものは絶対嫌い、ならぬものはなりません。

明と暗、陰と陽、正と邪、善と悪、両極にあるものは他にもたくさんあります。
山頭火は闇を尊べ、光を包むものは闇である。そう言っています。
私の発想にはないことですが納得できる言葉です。
この言葉を正解と考えるなら両極という考えは成立しなくなります。
先ほどの好きの反対は嫌いではなく無視・嫌悪感ということと
似ている気もします。

白黒は逆に使って、黒白(こくびゃく)をつけるとも言います。
私たちは頭のどこかでこちらともう一方という対極を無意識のうちに
求めている気がします、スポーツで言うならライバルや好敵手を
探してしまう、政治なら与党と野党、一方を支持すると他方は否定。

清濁併せ呑むと言う言葉がありますが、清と濁も両極ですが
澄んだ水はいつか濁りますし濁った水はいつか澄みます。
天気だってそうですし1日の時間の経過も明るい時間と暗い時間があります。
自然界は繰り返しの時間ですが人間界は違うようです。
好きな人をいつか無視したり嫌悪感を持つようになるかと言えば
そんな保証はありませんし、無視・嫌悪感を持つ人をいつか好きになるかと
それも保証できません。

何が言いたいと言うことではありませんのでお許しください。
思いつくまま書いているだけです。
げんき通信と惻隠だよりの封筒詰めで思考回路が止まっています。
単純作業をしていると何も考えずにいる時間が長く
物を考えても同じところをグルグル回っているだけで広がりがありません。

ただ、「好きと嫌いとどれほど違う、ただで命やるほど違う」
そんな人がいる人は幸せだし、そう思われている人も幸せです。

世の中はすっかり迎春準備もでき新しい年を待つだけになりました。
あと2日になった年末に考えることではないようです・・・・・。