私の「あの日」から20年
人生には「あの日」と言えばわかる日があります。
個人的にはさまざまな「あの日」があるかもしれませんが、
国民の多くが共有できる「あの日」は20世紀なら8月15日。
21世紀は1月17日と3月11日ではないでしょうか。
大津でも揺れました、生まれて初めてと言ってもいい
揺れかたが震度5でした。
神戸や淡路島では震度7から6強。
家の庭には4つの灯篭がありましたが、あの地震で
一番大きな灯篭だけ倒れました。
2メートル以上ある灯篭は台座を入れて4つに分かれていましたが
台座だけ残し庭に転がっていました。
今も庭に転がっています、歩くのに邪魔にならないように
少し位置は変えましたが。
予兆だったと言えばそうかもしれないし、偶然と言えば
そうかもしれません、大震災の翌日に親父は入院しました。
最後の入院でした、4月6日に亡くなるまで外泊もなく
ずっと病院のベットの上にいました。
今日は国民にとって「あの日」から20年です、
そして、明日は私にとって「あの日」から20年です。
今から9年前に親父を思って書きました。
20年目に親父を思って書こうと思いましたが
今は心にしまっておきます。
「あなた」
あなたが逝って11度目の春がやってきます。
阪神淡路大震災の翌日あなたは最後の入院をしました。
あれがいったい何度目の入院だったのか家族も忘れてしまうほど
入退院の繰り返しでした。
あなたの命の灯が消えるかもしれない、
そのことを最初に医師から告げられたのは、まだ17・ 8の頃でした。
病名は不整脈。
医師は、止まったら終わりやからね、
ご家族に連絡しても間に合いませんから覚悟しといてください。
事務的にそう告げました。
その次は肝硬変、これはすぐに命にどうこうないとのことで、
健康のバロメーターは酒が飲めるか否かでした。
あの頃は、よくあなたに酒を進めたのを覚えています。
それから胃がんでした。
それも胃の窪んだところで心臓の悪いあなたは手術もできず
レーザーで焼くにしても胃壁に穴が開いたらいけないからと
塩水で組織を浮かせて焼きました。
ガンの組織は完全に切除できなかった、あなたの体力を考えると、
これが限界と、お袋と2人で医師から説明を受けました。
それから10年ぐらいだったでしょうか、あなたの命があったのは。
でも、あの10年は入退院はあったものの不整脈や胃がんも
影をひそめ糖尿病と肝硬変が主な病気でした。
あなたの人生の晩年で右肩下がりとは言え少しは安定した時でした。
しかし、今考えてみるとあなたの体力が衰えガンの進行が遅かっただけかもしれません、
その証にガンは進行を止めずに肝硬変から肝臓がんへと
移行していったのです。
そんな中、昭和63年の春だったと思います、私が33歳の時でした。
「今度、選挙があったら商店街の理事長になるかもしれん。」
入院するあなたを送って行く時そう言ったら、
「皆がそう思ってくれるんやったら、なったらええ」
あの一言が背中を押してくれました。
明くる年、小学校の会長になった時、あなたは何も言いませんでした。
私の人生の中で1番苦しく辛い1年でした。
退院した時は孫を可愛がり、決してうまいとは言えない運転で
いろんなところに連れて行ってました。
ずっと中古の車を乗り継いできてチェリーとブルーバードと
2台続きの新車でブルーバードが来た時、
「これが最後の車やな」と寂しそうに呟いていたのを覚えています。
平成7年の3月でした季節外れのテッサを夕食に持っていったとき
あなたは1口だけ食べ「もうええわ」と箸を付けませんでした。
24時間の点滴が始まったのもその頃でした。
ずっと泊まり込みのお袋が風呂に入るために交代した時
「おしっこをするか」そう尋ねるとあなたは軽くうなずき
ベットから身を起こしました。
細くなった足で立ったもののパジャマのズボンが
下しづらくて私がサルマタを下して、あなたの先っちよを
つまんで尿瓶に向けると気持ちよさそうにおしっこをしました。
後で、お袋にそのことを言うと驚いていました。
そして、いよいよ4月6日、お袋と弟と私が病室にいた午後6時ごろ
「もう帰ってや大丈夫やで」
右を向いて3人にそう言った後、
「上を向くわ」それが最後の言葉でした。
家族3人に看取られて大往生でした。
今年生きていたら80歳、街で同じ年代の人を見ると羨ましくなります。
振り返ると11年と言う歳月は長くもあり短くもありました。
もう1年したら13回忌です。
あなたが元気でいたら今の私を見てどう言うでしょう。
できることならずっとあなたの中でデキの悪い息子でいたかった。
お父ちゃん