抜粋のつづり 74集
「森信三と言う素晴らしい教育哲学者がいる」
そんな話を伝え聞いたのは昭和52年、私が福岡の教育委員会で
指導主事を務めていた時でした。
当時は全国各地に校内暴力の嵐が吹き荒れ教育の荒廃が
深刻化していました、私の地元でも生徒がトイレを壊したり
教室のガラスを叩き割ったりするような中学校が何校もあり
教育をいかに基本から立て直すかということが喫緊の課題に
なっていました。
森先生が福岡の仁愛保育園で母親を対象にお話しをされると
聞いた私は、早速聴講させていただくことにしました。
驚いたのは、そこでは大の哲学者が、
「呼ばれたら大きな声でハイと返事をしましょう、ハイと言う返事が
人間の我を断つのです」
と、実に単純極まりないことを熱心に説かれていたのです。
「腰骨立てましょう腰骨イコール主体で、腰骨を立てない限り
真の人間にはなれません」
「しつけの3大原則というものがあります」
1朝の挨拶をする子
2ハイとはっきり返事ができる子に
3席を立ったら必ず椅子を入れ、履物を脱いだら必ず揃える子に
人間を作っていく上での基本を見事にとらえたお話に、
目から鱗が落ちる思いがしました。
人生を変える出逢いを果たしたのは師が82歳私が47歳の時でした。
衝撃を受けた私は、入手困難だった森先生の全集25巻を東京の古本屋に
求め当時のお金で40万円の大枚をはたいて入手しました。
そこに記されていた言葉は一言一句が強烈に心に響き、
重要と思われるところに朱線を引きながら再読を繰り返すうちに、
全文真っ赤に染まりました。
また森先生が来福されるたびに私は案内役を務め、
ご講演先に随行して先生の教育哲学を一生懸命に吸収しました。
先生が学校を訪れる際に必ず見ていかれるのが下駄箱でした、
子供たちの履物の揃え方にはその学校の程度が如実に現れることを教わりました。
ご講話の前でもガヤガヤと騒がしい学校では、生徒たちを1メートル間隔に座らせて
あっという間に私語を封じ込められたのには驚かされました。
先生の教えが私の心をとらえて離さなかったのは、
その内容の素晴らしさはもとより、それら1つ1つがすべて実践に裏打ちされており、
ご自身の体にはまり込んでいたからだと思います。
今でも忘れられ忘れられないのは、一日の講演が終わり中洲で
夕食をご一緒した帰りに近くの那珂川を散歩していたときのことでした。
あたりにたくさんの紙屑やゴミが落ちているのをご覧になり先生はおもむろに、
それらを素手で拾い始められたのです。
私たち同伴の一行もしばらく先生に従い紙屑を拾いましたが、
一区切りついたところで森先生はこうおっしゃいました。
「紙屑はその国の文化の象徴ですからね」
私には紙屑はその街の文化の象徴と言われたようで大変恥ずかしい
思いがしました、それを機に月に1度博多駅の早朝清掃を始め、
もう20年継続しています。
紙屑の教えは学校にも当てはまり、乱れた学校は決まって
規律が乱れ校内も汚れています。
私自身、生徒の半数が遅刻をする学校に赴任したことがあります、
問題は生徒ばかりでなく先生方まで遅刻をすると言う深刻な状況でした。
私は指導めいた事は一切せず、毎朝1番に登校すると、
森先生の教えにならってまず校長室の掃除を励行しました。
そこから隣の事務室、さらには保健室と日ごとに掃除場所を拡大して
いくにつれ、手伝ってくださる先生が現れ掃除の輪は全校に広がっていきました。
結局、1ヵ月もたたないうちに学校は規律を取り戻したのです。
森先生がお亡くなりになって早や20年以上が経ちます、
その後も私は様々な教育理論を学びましたが、いまだに森先生の
右に出るものに出会っていません、この頃では先生の謦咳に接した
方も少なくなり、その教えの真髄が忘れさられていくことが気がかりです。
教育の現場では今も挨拶や掃除の指導が行われていますが、
それらをただ口先だけで言い聞かせるだけでは決して子ども達の
訓導はできません、彼らの行く末を心底願って指導すること、
そして何よりもそれを説く指導者が自ら実践する人であること。
森先生の在りし日の姿を思い返すたびにその感を強くします。
私は現在83歳ですが妻に先立たれ1人暮らしを余儀なくされています、
人間には確固たる生きる目的が必要であることを痛感する日々ですが、
奇しくも森先生も同じ歳に独居生活を始められたことが大きな励みになっています。
既に現役を退いて久しい私ですが、今の自分の立場で少しでも
他人様のために尽くすことが日々の大きな目標です。
外で人に出会えばこちらから先に挨拶をし、道端に1つでもゴミが落ちていれば
それを拾う。
森信三先生の凛とした佇まいを思い描きながらそうした細やかな行いを
積み重ね実践の人の真髄を少しでも継承して行くことができれば幸いです