魂を乞う

いとう茂

2015年09月25日 12:32


物思う秋、セピア色の思い出に思いを馳せる人、思っても時は戻らない、
そのことは百も承知で取り留めのないことを考える、夏に成就した
恋が破れるのもこの季節が多いと言いますし、遠く離れた人を思ったり、
逢いたくても逢うことができない、そんな心が疼きだすのもこの季節です。
「たまこい」、魂を乞うということですが、ネットで調べると色々な記事に
出会えます、その中から一つ紹介します。

恋愛 ~ 「Love」の訳語として明治以降に普及したが、どうして「恋愛」となったのだろうか?

男と女が異性に惹かれて慕っている状態を「恋愛」と言ったりするが、
その「恋愛」という言葉が出てきたのは、幕末から明治初期のころであったという。

英語の「Love」やフランス語の「amour」の訳語として
「恋愛」という造語ができたという。
「恋愛」という文字が日本で最古に見られるのは1847年にあった
メドハーストによる「英華辞典」であるという。

これより以前は、日本には「恋愛」という言葉がなかったのであった。

ただ、その時以前から「恋」という文字や「愛」という文字はあった。

「恋」は「こい」と呼ぶが、どうして「こい」と呼ぶようになったのか、

民俗学者折口信夫によると「魂乞(たまこい)」という言葉に関係しているという
「魂乞」とは、魂(タマ)を乞う(コフ)ことである。

人の身には魂(タマ)があるが、近くにいた思い焦がれる親しい人が
離れてしまうと相手の魂(タマ)を乞うようになり、それを「魂乞(たまこい)」と呼び、
魂(タマ)が取れて、「コイ」という言葉になったというのだ。

万葉集では「こい」は「孤悲」という文字を用いた相手が目の前にいないのを淋しく思い
孤独の悲しみを表していたのかもしれない。

ところで、「恋」という文字はもともとは戀(レン)という文字が用いられていた。
戀の上の部分は、左右に「糸」その間に「言」が用いられている。
「言」とははっきりと裁断する明快な言葉を表しているという。
その「言」を両端から「糸」につながれて、はっきりと断ち切ることができない
つながりという意味に戀の上の部分はなっているという。
それに戀の下の部分の「心」と合わせて、心が惹かれ、
こい慕うことを表現するものになったという。

「愛」という文字も明治以前からあったが、明治以前は
仏教で煩悩のひとつとされ「欲望にとらわれて執着する」という意味合いで使われ、
あまり良いイメージで使われていなかったという。

それは仏教が生まれたサンスクリット語の「trsna」に由来し、その意味は「渇く」である。
喉がからからに渇けば、水を求めずにはいられず、
むさぼるように飲むこともあるが、男女の関係においても
それと同じくむさぼるように互いを求め合う盲目的な衝動という意味で使われたことに
起源があるようだ。

サンスクリット語を漢訳するときにその「trsna」に「愛」を用いたのだが、
仏教語の他者への分け隔てのない慈しみを意味する「preman」の
訳語としても「愛」は用いられたという。

「愛」という漢字は「旡」「心」「久」という字から成り立っている。
「愛」という文字の下の「心」「夂」は原型に近いが、「旡」(アイ)は大きく形が変わっている。

「旡」は、人が食べ物をたらふく食べて「あ~、食った、食った」と
後ろにのけぞっている姿を表しているという。

「旡」は「既」という文字の左側に使われるが、その「既」の右側は、
お盆に乗った饅頭を乗せている状態をあらわし、饅頭をたくさんたべて
のけぞっているということで、「たくさん」「いっぱいになった」という意味で
「既」が使われている。
「感慨にふける」という「慨」は「既」が使われているが、
つまり、感動して胸いっぱいになっている状態を表し、それは「心」の状態であるので、
「旡」に「心」を付け足し、さらに感慨にふけったり、胸いっぱいの切なさを
感じたりすると、歩みが遅くなることがあるので、足をひきずる意味の「夂」を加えて
「愛」という文字が成り立っているというのだ。

また「旡」には贈るの意味もあり、人にモノを贈る、めぐむ、それが「あいする」
という意味にもなったという。

以上のことからわかるように「愛」という文字は、
仏教の煩悩以外の意味があるのだが、中世の日本では
煩悩のイメージがつきまとったのだ。

そのようなこともあり、中世にポルトガルの宣教師から伝えられた
ポルトガル語で「愛」を意味する「amor」を「大切」「御大事」と訳したり、

幕末に英語の「love」が伝わった時は、はじめは「財宝(たからもの)」と
訳していたという。

明治になり英語の「Love」やフランス語の「amour」を表すものとして
「恋愛」とされたのは、英語の「Love」には良い意味があり、
かつキリスト教の「神の愛」にも使われるので、それまでの日本の孤独を
まぎらわす意味のある「恋」や煩悩のイメージのあった「愛」の意味と区別するため、
「恋愛」という言葉を生み出す必要があったのかもしれない。

「恋愛」という言葉の初めの実用例は1871年(明治4年)に中村正直が
スマイルズの「Self-Help」を翻訳した「西国立志編」が出版したが、
その「西国立志編」で、「Love」の訳語として、「恋愛」と使われたことだともいわれる。

ただ、まだそのころは、「ラーブ」「ラアブ(恋愛)」など書いて、
「恋愛」が訳語として定着しなかったが、

1892年(明治25年)に北村透谷が「厭世詩家と女性」において
恋愛は人世の秘鑰なり、
  恋愛ありて後人世あり、
    恋愛を抽き去りたらむには
        人生何の色味かあらむ。

と書き記し、
「恋愛至上主義」の立場を鮮明にしたことは島崎藤村はじめ多くの若者を驚嘆させ、
「恋愛」という言葉がドラスティックに普及し、以降、「恋愛」という言葉は
日本語として定着したと言われている。

歴史や語源がわかっても、愛や恋の本質が分かるわけではありません。
ましてや、婚活中の男女がめでたくゴールインということもありません。
ただ、遠い昔の古傷が疼き、当時に思いを馳せることで、自分の生きざまを
振り返り、今ある自分は幸せだと再認識できればと思います。