面白い話⑦
僕は、ある特別番組の撮影で、世界的に有名な登山家の
故・田部井淳子さんと一緒に三週間かけて北アルプスの
山々を縦走する経験をしたことがあります。
それは、僕のアナウンサー人生でも、最長にしてもっとも
過酷なロケでした。
富山県の立山を出発し、日本最後の秘境と言われる
雲ノ平を抜け、標高が日本第五位の高峰・槍ヶ岳、同三位の
奥穂高岳を越えて、長野県と岐阜県にまたがる「ジャンダルム」
という巨大な岩の塊をめざす、六十キロの山旅。
標高三千メートルを超す山々からの絶景は美しく、心を
奪われましたが、想像以上のアップダウン、目まぐるしく変化する
天候、膝を襲う痛み・・・・・僕は疲労で動けなくなり、息も絶え絶えに
「もう歩きたくない」と口にすることが何度もありました。
そんなとき、田部井さんはいつも「休む時は休む。それでも一歩一歩、
歩いていけば、必ず目標にたどり着く」と、声をかけてくれました。
それは「ゴールははるかでも、少しずつ自分のペースで進むことで、
目的に達成する道が開ける」という教えのようでもありました。
僕は、田部井さんの優しくも的確なアドバイスを受けながら、標高
三千百六十三メートルの「ジャンダルム」の頂という、インドア派の
僕にとっては夢のような場所にたどり着くことができたわけです。
そして、この「一歩一歩」の教えは、山から下りて歳月が流れ、
NHKを辞めた後になっても、僕を窮地からたびたび救ってくれる
大きな力になってくれています。
「いばらの道」を歩かなければならない時や「針のむしろ」に
すわらされるとき、重圧をすべて肩に乗せてしまうとつぶれてしまい
ますから、目の前の課題を一つひとつ、少しずつ解決していけばよいと
頭を切り替え、ずいぶん気が楽になりました。
今も全国津々浦々に、昼夜を問わず、終わりの見えない子どもの
ケアを続けている家族がいます。
社会のサポートが行き届かず、子どもの将来の不安を消し去ることは
難しいのが現実です。
それはまるで、どこが頂上なのか知らされずに歩き続ける、途方もない
登山のようです。
田部井さんから学んだ登山の極意は、山の世界にとどまらず、
あらゆる局面、あらゆる現場に応用できる、人生の歩き方を示して
いることを、僕はもみじの家でのさまざまな経験を通して、あらためて
感じています。