膳所の町

いとう茂

2021年04月10日 21:19

家の前は東海道で土日だけでなくリュックを
背負い、地図を片手に歩く人を見るのは珍しいことではありません。
東海道は徳川家康が天下を平定してから整備されましたが、
その時に家康が最初に作った城が膳所城です。
膳所の町は、秀吉が作った大津城が関ケ原の合戦で長等山から
砲弾で攻撃され、防戦一方になったことから家康が瀬田の唐橋の
警護などの目的で膳所の地に城を作ったと言われています。
言い換えると膳所の町は人工的に作られた町で、入りやすく
出にくい構造の袋小路や行き止まりの名残が多数あります。
家の前が東海道、裏手は膳所城の堀があり白い城壁の中は
刑務所でした。
それが55年ほど前に刑務所が移転し広大な空き地ができました。
親父から聞いた話ですが、当時は地元でこの空き地の利用について
議論があったようです。

JRに面している膳所小学校を移転して小学校の後に団地を造る話と
刑務所の空き地に団地を造る話です。
結果からみると、刑務所の空き地に団地を誘致したことは正解だと
思っています、小学校の空き地に団地を造っていれば細い道に
車があふれていた気がします。
その解消には、元から住んでいる人の移転を考えて新しい道を
作るしかありませんので、こうした交渉も大変だろうと想像します。
当時は田んぼもたくさんありましたので山手の国道に向いての道は
JRをまたぐ橋を架ければ対応できたかもしれませんが、刑務所の
移転と同時期に整備が始まった湖岸道路へのアクセスは、かなり
難航したように感じます。

膳所の学区の中には京阪電車の駅が5つあり、小学校の最寄り駅は
どちらからでも3つ目の中ノ庄駅です。
膳所の町の真ん中に位置している小学校ですが、刑務所の跡地でも
位置的にはそれほど変わらないように思います。
昔は、膳所学区はもっと広く、子どもの足なら歩いて学校まで1時間弱、
そんなところから来ていた同級生も大勢いました。
それも膳所学区と晴嵐学区の一部を併せて新しい富士見学区が
できたのと、膳所学区の一部を平野学区に編入して解消され
現在に至っています。
分離された側の人たちの、膳所学区に対する思いを聞いてみたい
気持ちもあります。
ふるさと・・・・・私には膳所小学校がありますが、地名や学区が変わって
卒業していない小学校に愛着が持てるのか・・・・。

裏手にある団地を眺めていて、ふっと思い出したことの羅列です。
団地を眺めていて感じたこともありましたので改めてアップします。