続 幸福と満足

いとう茂

2012年02月03日 12:45


昨日のブログで、幸福と満足について
書いたわけですが、読んだ方から
分かりにくいとの電話をいただきました。

まず、私の中での話ですので正解かどうか分かりませんが、
町と街、生活と暮らしの概念から書きたいと思います。

町と街は、昨日も書いたように、
町は一筆書きができそうな字です。
つまり、生活に必要なネットワークが整ったイメージの
まちを連想しています。
かたや、街は、その字から行くという文字の中に
土が重なって入っています。
行くところに土がある。
土はただの地面ではなく、自然や潤い、
人間関係を意味すると考えます。

生活とは、生きる活動ととらえており、
その活動に必要な、施設、施策が
あるのが町という位置づけです。

暮らすとは一日が暮れる、
今日を過ごしたまちで明日も暮らす
ことに期待が持てる、今日の出来事に
感謝しながら、反省しながら一日が終わる。
そうとらえています。

つまり、生きる活動をしていくうえで
何不自由なく活動できる、そのための機能を備え
物質的な満足を与えてくれるのが町です。
一生住み続けるに当たり、
人と人との交わりの中で、心を通わせる、
笑い声や、ときには怒声も混じるでしょうが、
人間として成長できる土壌の整備、
それが街に課せられた使命だと理解しています。

一方は物質的な満足、もう一方は精神的な充足
この二つの機能を備えているのが「まち」だと
信じて、地域でもいろいろと今まで活動を
してきました。
今回の選挙に立つ覚悟の中には、こうした
自分の過去の生き様の検証もありました。

ですから、今の多くの人を見ていると、
単に物質的な満足の連続が
幸福にはつながらないと思いますし、
幸福だから、物質的に満たされているとも
考えません。
もちろん、このことは、私自身への反省と自戒
でもあるわけです。

炊き立てのご飯と漬物だけの夕食、
それでも心は満たされます。
フルコースのディナーを毎日いただいても
心が満たされるとは限りません。

寒い夕暮れに、心を許せる大切な人と
震えながら歩いて帰路につく、
そんな中にも幸福は潜んでいます。

日本人の忘れ物は、満たされていることへの感謝
だったのかもしれません。
満たされていることに慣れてしまい、さらに、もっと、まだまだと
他と比較して上を求める。

昔は、たった一つの満足を手に入れることが
幸福だった気がします。
誰と比べることなく自分だけの自慢・・・・・

下書きを最近しないのでどうも取り留めのない
文章になってしまいます。
この話ならいくらでも広がっていきそうなので
分かりづらい方はコメントでもください。