大雨に思うこと
昨日の夕方、テレビで和歌山県の大雨警報を
知らせていた。
大津でも、8月に大雨が降り土砂崩れがあった。
隣の京都では宇治市で死傷者が出た。
最近、警報が多いように思う。
子どもの頃にはこれほど多かった記憶はない。
これからも、大雨で災害が起きないことを願う。
夕食の後、大きい犬と降る雨を見ていた。
頭を濡らし背中までジメジメしている大きい犬。
隣で何も言わず座っているだけだ。
降る雨の中、通りをバイクが走り去っていく。
この雨の中でも仕事をしている人がいる。
当たり前と言えばそれまでだが、
私は縁側に座りのんきに雨音を聞いている。
屋内でパソコンを叩いて仕事をする人、
飲食店であわただしく動き回る人、
時間指定の荷物を団地の階段を駆け上がり届ける人、
レインコートを着て雨に濡れながら走る人・・・・。
生きんがため、なにがしかの糧を得るために働く人たち。
今日もネオンに誘われて放蕩三昧の人、
騒々しい店内で無心に球を打ち続ける人、
赤鉛筆で競馬新聞に印をつける人、
黙々と電話の画面と格闘する人・・・・。
一ケタの足し算で日々暮らす人も
倍々ゲームで人を顎で使う人も、
放蕩三昧でドロドロになる人も、
一攫千金をたくらむ人も
帰るべきところは経済活動。
稼いでも浪費してもすべて経済活動。
経世済民の実態がそこにある。
屋根から流れ落ちた雨が作る水たまり。
たまった水もいつかは消える。
たまったお金もいつかは消える。
そして、人も・・・・。
いつだって自然の営みはシンプルで賢明だ。
そこには、腹心や欲望がないから。
雨音はそう言っているようだ。