2019年05月31日

ありがたき哉、健康体

この前、生命保険の更新時期が近づいたので新しい
プランを持ってきました、とセールスの方が来られて健康体と
いう条件でプランを作成してきたので、必ず健康診断にいって
欲しいという事で、診断を受けて診断結果をセールスに渡しました。
昨日、電話がかかり、健康体の条件よりもさらに保険料が安く
なるという結果が出ましたのでお知らせしますという報告を
うけました。
自分の体が丈夫で元気であることが嬉しい時もあり、恨めしい時も
ありますので、特別な感情はなかったのですが、周囲の同年代の
人を見ると外見から歩行がおかしいとか、急な動きができないとか、
内面的には糖尿病や血圧の薬が手放せない人が本当に多いのに
気が付きますし、驚きでもあります。
医者嫌いで定期的な健康診断もここ2・3年は受けていませんので、
突然・・・・・という事もあるだろうと自覚しています。

一昨日も筋トレに行ってきました、先々週から40キロのスクワットをはじめ、
先週、今週と同じ重量でスクワットをしましたが、自分でもはっきりわかる
筋肉強度を感じました、一昨日はスクワットに加えて上半身の強化と
考えて背筋を鍛えるトレーニングを行いました。
ベンチプレスは肩の腱が断裂でありませんので、できませんが床から
持ち上げることは可能です、これも続けて行けば7月にはもう少し
持ち上げる重量を増やすことができそうで、定期的に筋トレに
通うことを考えています。

学生時代とは比べようもない重量しか持てませんが、こうしたトレーニングが
できるのは健康体ゆえのことで、頑丈に生んでくれた両親に改めて
感謝です。
肩の腱が切れていなければ・・・・・今頃はきっと、マスターズのウエイト
リフティングに出たいと思い、もっと激しいトレーニングをしていたと
思いますが、そこは神様か仏さまが「そこまでは望みすぎ、調子に
乗ってはいけません、足るを知る心を育てなさい」との思し召しだと
感じています。
日常生活に何の支障もない体であることは、ありがたき哉、ありがたき哉。
  
Posted by いとう茂 at 23:49Comments(0)

2019年05月31日

おじいさん

自分が高齢者だと実感するとき、階段の上り下りが
苦痛、膝が痛い、腰が痛い、朝早く目が覚める、夜更かしが
辛い、物忘れが激しくなった、体を動かすのが億劫、
反応が遅くなった・・・・・・。
自分ではこうした自覚はないのですが・・・・・・。
水曜日に子どもの和太鼓の新入会員向けに見学会を
した帰りに、小学1年生の男の子が発した言葉が・・・・・・。
「太鼓のおじいさんや」
続いて母親が「こらっ」・・・・・とどめでした。

母親も私の娘より若いのでしょうから、1年生の男の子にしてみれば、
自分のおじいさんよりも上の人間を見ればおじいさんと、呼ぶのは
自然なことです。
それでも・・・・・・、自分ではまだおじいさんと認識していません。
朝のスクールガードは、孫の年代の子どもを見守る役目ですので、
自分のことを緑のお爺さんと呼んでいますが、他人から改めて
「おじいさん」といわれると、少なからず心が折れそうになります。

曽野綾子さんが40歳ころに書いた「戒老録」という本があります、
ある意味、これは長年私の座右の書ともいうべき本で、新刊、
補増版、完本、と書き足されており、50年近く前によくこんな
発想ができたなぁと、感心させられます。
その中に、人から優しくされたら年寄りだと思え。
そんな内容の記事があったと思いますし、逆の、口答えされたら
対等に扱われている、という記述もあります。

人からどう見えていようと自分は自分、サムエルウルマンの
「青春の詩」を紹介して負け惜しみとします。

青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易(やすき)に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。
人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。
悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬・夜空に
輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心
・子供のような探究心・人生の喜びとそれに対する興味を変わらず
胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを
感じ取ることができる限り、その人は若いのだ。
感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。
  
Posted by いとう茂 at 22:14Comments(0)

2019年05月30日

生かされている②

昨日の続きです、誰かに支えられたり、世話になって
生かされている、これは誰にも共通することだと思います。
自分は畑と田んぼで作物を作って自給自足の生活で
誰の世話にもなっていない、そういう意見もあるかもしれません。
しかし、畑を耕す農具は既製品でしょうし、田んぼに入る時の
長靴もどこかで買ったものです、住んでいる家も家具も
衣服も寝具も食器も自動車、自転車・・・・・・身の回りの
ほとんどの物は誰かが作ってくれたものです。
つまり、誰かに支えられている・・・・・・・・そう思います。

生かされている、そう実感すると、いつしか謙虚になっている
自分がいます、もちろん不出来な人間ですので、ほんの一瞬を
「いつも」と錯覚しているかも知れませんが、とにかく一瞬でも
謙虚な自分に気づきます、その次は、おのずと感謝の気持ちが
湧いてくるように思います。
支えてくれている誰かや何かがあるから、生かされているという実感が
出てくるわけですが、同時に「すみません、ありがとう」そんな言葉も
出てきます。

すみませんは、すまないからきた言葉で謝罪の意味もあるとか、
そしてありがとうは感謝の言葉です。
これは持論ですが、世の中のことは「すみません」と「ありがとう」で
かなり多くのことがうまくいくように思います。
そして、大人になるにつれて言えなくなるのが「すみません」と
「ありがとう」でもあります。

この前、新聞だか本だか忘れましたが、「支援する」という言葉は
思い上がりの言葉だと・・・・・そんな意味のタイトルだけ目にして
内容を読まずにいました、何が書いていたのか分かりませんが、
自分なりに推測すると、支援する、それに足るだけの人間か、
一時の仏心で能力もないのに慈善心を出しているだけでは
ないのか、本来は、寄り添わせていただく、その位、謙虚に
ならなくてはいけない・・・・・・。
ではないのかと。
昔、一燈園の代表を務められていた石川洋さんの本だったと、
記憶していますが、見ず知らずの家に突然訪問して「トイレ
掃除をさせてください」という修行法があると文章を読み
ました、人が嫌がるトイレ掃除を進んでやらせてもらう、それも、
見ず知らずの家の・・・・・。
これも、生かされているという感謝の心に通じる教えだと
思います。
現在進行形の、ひきこもりや不登校等の相談、話を聞いていて
頭ごなしに叱りつけたいこともありますが、ひるがえって、自分に
そんな資格や能力があるのか、困って訊ねてくださった人を
叱りつける、そんなことが許されるのか、困りごとに寄り添い、
先の見えない道を時には迷ったり、つまずいたりしながら
一緒に歩いてあげるのが、本来の姿ではないのか。
自分の価値観を押し付けることで自立ができるのか、まずは、
相談者が心を開いて話してくれる人間にならなければ、
相談窓口なんて偉そうなことを言うのは10年も20年も早いわ。
そういえば、自戒も生かされている人生では重要なことです。
  
Posted by いとう茂 at 21:47Comments(0)

2019年05月29日

朝寝坊

緑のお爺さんが月曜日から金曜日までありますので、
ある意味、規則正しい一日の始まりを迎えることができます。
アラームは6時30分にセットしてあり、1度で起きない場合は
5分経つと2度目のアラームが鳴ります、それでも起きないと
また5分後にアラーム、と親切なのかお節介なのか・・・・・・。
最悪、7時5分まで朝寝坊をしていても家を出るのが7時20分
ですので洗面とトイレで髭剃りと朝食を帰ってからにすれば
間に合いますが、今朝は不覚にも5時30分に目が覚めてしまい、
そこで起きればよかったのですが・・・・・・二度寝。

案の定、アラームが鳴っているのは分かりましたが、ウトウト
し続けて、目が覚めたのは7時10分、あ~あ、やってしまった。
一瞬そう思いましたが、必要は発明の母です。
出発まで10分ある、先に着替えをして洗面だけ、トイレと朝ご飯は
帰ってからにしょうと決めて用意をすると、7時19分には準備が
終わりました。
何とかなるんや、その気持ちは明日からアラームを15分遅らせると
いう決意に変わりました。
洗面とトイレで5分、髭剃り5分、朝食5分で15分、時間は7時のはず、
着替えをゆっくりしても7時5分には終わります。
出発までまだ15分ゆとりがありますので、庭の木に目をやるゆとりも
十分あります。
痛い目をしての気づき、明日から早起きしょうと素直に考えない
自分がおかしくもあり、それも前向きの一種かと思っています。

ここ最近、子どもが巻き込まれる痛ましい事故、事件が続いて
いますので、交通整理もゆとりをもってを意識していますが、これなら
十分ゆとりを持つことができます。
最近の睡眠時間はおそらく4時間台ですので、15分の睡眠は
ありがたいことです。
何年も緑のお爺さんをしているのに、なぜ今日まで気が付かなかったのか。
日常生活の中には時間だけでなく、手順や考え方が固定されている
ものがほかにもありそうです。
年を重ねると若い頃よりも頭が固くなる、それは新しいことを嫌う
安定主義からかもしれませんし、ただの思い込みもあるでしょう。
もう一度、生活習慣を見直すのも新しい発見があると思います。
  
Posted by いとう茂 at 22:38Comments(0)

2019年05月28日

生かされている

議員を退任するにあたって、今後のこともゆっくり
考えたいと思い、3月の末に四国を歩いてきました。
あいにくの雨でしたが、春遍路の始まりで歩き遍路も
結構いました。
急ぐ遍路でもないのでゆっくり歩き、雨脚が強くなると適当に
雨宿り、あまり時間が取れなかったので1泊2日の行程でしたが
それでも、いくつかのことに結論を出して帰ってきました。

1泊2日だと、よほど急な山道が続くとか酷暑の時以外は、
そんなことは思いません・・・・・・なんで、こんなことしてるんやろ。
3泊とか4泊で連日、痛い足を引きずる歩きが続くと、1日に何度も
なんで・・・・・・と思いながら歩いてる時間があります。
そして、時々ですが、生かされている、そう思うことがあります。
生きているから歩いているのか、生かされているから歩いているのか、
多くの人にとっては、それほど大きな問題ではないかもしれません。

今歩いている自分はどうしてこの世に生を授かったのか、そのことは
時々考えてしまいます。
偶然、必然、ご縁・・・・・・、そのあたりを行ったり来たりしていて、そのうち
何も考えられない時間がやってきて、この問題も消えてしまいます。
私を構成している精子と違う精子と卵子が結合していれば、私とは
違う人間がいるわけですし、私と一緒に違う精子が卵子と結合していれば、
双子になっていたかもしれません。
そもそも、私が父親の精子だとどこで誰が決めたのか、そんなことを
考えている時に解決する明快な言葉が「ご縁」ですし、前向きに物事を
考えている時は必然という答えが出てきますし、心が沈んでいる時や
悩みがある時は、半ば焼け気味に偶然、たまたま、そんな結論になります。

今歩いている自分がどうあれ、一人で生きているわけではないことを考えると
生かされている、生かされている自分が今ここにいる。
生かされている、その気持ちが強いと遍路の民宿での食事がおいしくいただけます、
お大師さんが歩いたであろう道を歩かせていただいている、そんな謙虚な気持ちに
なります。
風が吹くと桶屋が儲かるではありませんが、謙虚になると・・・・・・。
次の機会に書きたいと思います。
  
Posted by いとう茂 at 22:01Comments(0)