2014年04月10日
やまだの作文24年度②
これから研修に行ってきます、夜も会議がありますので、
外泊許可をもらってから研修受講です。
時間がありませんがやまだの作文の続きを掲載します。
中学1年生が書いた作文です。
震災当時は5年生で自分の素直な気持ちを羅列した作品です。
昨年2月に発行されたもので震災から約2年が経過しています。
陸上競技、野球、運動会で頑張ったことや魚釣りで
たくさん釣れた思い出を書いた作文が多い中で、かけがえのない友人を亡くし、
失意から立ち直り改めて友人のことを想い感謝の言葉を綴った作文です。
「ありがとう」をかけがえのない人へ
私は「今、伝えたい」ことがある。それは三月十一日のことだ。
三月十一日は、私は、普段通り小学校生活を過ごしていた。
そして、その時だった。
大きな地震が起きた。
先生の指示とともに、机の下にもぐった。
頭の中は真っ白になり周りの声が聞こえなくなった。
とても怖かった。
まだ私は「津波」という恐ろしさを知らなかった。
そして避難をしていると「大津波警報」が発令された。
もっと高い所へ避難していると、私は「津波」の恐ろしさを目の当たりにした。
建物や車、そして電信柱など、様々な物が大きな黒い波によって流れていった。
それを見た時、家にいるお母さん、ばあちゃんのことがとても心配で心配で、
いられなくなった。
「津波」がおさまってからお母さんが迎えに来てくれた。
いままでの心配から解放され、大粒の雨のように涙があふれてきた。
とてもうれしかった。そしてお母さんに聞いてみた。
「家は大丈夫?お父さんは?ねぇちゃん達は大丈夫?」
そうしたら「家もみんなも大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間に「家族みんな大丈夫なんだ」
「生きているんだ」とほっとした。
歩いて家に帰り、ろうそくの準備をした。
準備をしているとお父さんが帰ってきた。お父さんの顔を見るとまた安心した。
そして、避難している人が家にも来た。もう外は真っ暗だ。
ろうそくの火は何本もついているのに人の顔すら見えず、影しか見えない。
しばらくするとばあちゃんが帰ってきた。
ばあちゃんは、火事を見に行っていた。「すごい火事だ」と言っていた。
私の家の前にある山の所よりずっと後ろで火事が起こっているはずなのに、
その山の左側からでも、赤々と燃える炎、もくもく上がる黒い煙が見えた。
その炎や煙は、その翌日までも続いていた。
一刻も早く消してほしいと心から願った。
まだ安心してはいけない。
大きな地震があった日から、ずっと小さな地震、「余震」が起きていた。
ほかにも、地鳴りが続いていた。あれほど大きく長い地震ではないが、
わりと大きめな地震が起きることもあった。
このようなことが一日に何十回も続いていた。
停電が続いているから井戸水は使えなかった。
けれど、家には山水があったので、山水を使っていた。
山に水を取りに行く人のためということで「山の水です、ご自由にくんでください」
という掲示板みたいなものを建てた。建てると、そこでくむ人もいた。
お父さんは自衛隊なので、時々家に戻っては、何日も救助に行くということが続いていた。
そしてある日のことだった。お父さんが帰ってきたら、私にこう言った。
「残念だ」
と、私はその言葉を聞いたとき、すぐに分かった。何も言えなかった。
そしてお父さんが口に出した名前は、幼稚園の頃からの友達と、そのお母さんだった。
その友達は、足も水泳もとても速かった。すごいといつも思っていた。
小学校は違ったけれど、中学校からまた同じ学校になれると楽しみにしていた。
だから聞きたくなかった。二階に上がり、幼稚園の頃にもらった色違いの
キーホルダーを握って泣いた。信じられなかった。
そしてまた信じられないことが起きた。今度は同じ小学校の友達の死だった。
その友達は、私が転校してきた時にそばにいてくれた。
そして一緒に児童会執行部に入った。彼女は児童会長になった。
話し合いの時に、私でも思いつかないほど、
すぐにみんなの意見をまとめて自分の意見も言っていた。
すごいと思った。憧れていた。
だから信じられなかった。信じたくなかった・・・。
このかけがえのない二人の友達に、私は今どうしても伝えたいことがある。
それは『ありがとう』だ。
そばにいてくれてありがとう。
支えてくれてありがとう。
遊んでくれてありがとう。
いつも優しくしてくれてありがとう。
今まで本当にありがとう。
かぞえきれないほど『ありがとう』の感謝の気持ちがある。
だから、その気持ちを忘れずに、大切にしていきたい。
外泊許可をもらってから研修受講です。
時間がありませんがやまだの作文の続きを掲載します。
中学1年生が書いた作文です。
震災当時は5年生で自分の素直な気持ちを羅列した作品です。
昨年2月に発行されたもので震災から約2年が経過しています。
陸上競技、野球、運動会で頑張ったことや魚釣りで
たくさん釣れた思い出を書いた作文が多い中で、かけがえのない友人を亡くし、
失意から立ち直り改めて友人のことを想い感謝の言葉を綴った作文です。
「ありがとう」をかけがえのない人へ
私は「今、伝えたい」ことがある。それは三月十一日のことだ。
三月十一日は、私は、普段通り小学校生活を過ごしていた。
そして、その時だった。
大きな地震が起きた。
先生の指示とともに、机の下にもぐった。
頭の中は真っ白になり周りの声が聞こえなくなった。
とても怖かった。
まだ私は「津波」という恐ろしさを知らなかった。
そして避難をしていると「大津波警報」が発令された。
もっと高い所へ避難していると、私は「津波」の恐ろしさを目の当たりにした。
建物や車、そして電信柱など、様々な物が大きな黒い波によって流れていった。
それを見た時、家にいるお母さん、ばあちゃんのことがとても心配で心配で、
いられなくなった。
「津波」がおさまってからお母さんが迎えに来てくれた。
いままでの心配から解放され、大粒の雨のように涙があふれてきた。
とてもうれしかった。そしてお母さんに聞いてみた。
「家は大丈夫?お父さんは?ねぇちゃん達は大丈夫?」
そうしたら「家もみんなも大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間に「家族みんな大丈夫なんだ」
「生きているんだ」とほっとした。
歩いて家に帰り、ろうそくの準備をした。
準備をしているとお父さんが帰ってきた。お父さんの顔を見るとまた安心した。
そして、避難している人が家にも来た。もう外は真っ暗だ。
ろうそくの火は何本もついているのに人の顔すら見えず、影しか見えない。
しばらくするとばあちゃんが帰ってきた。
ばあちゃんは、火事を見に行っていた。「すごい火事だ」と言っていた。
私の家の前にある山の所よりずっと後ろで火事が起こっているはずなのに、
その山の左側からでも、赤々と燃える炎、もくもく上がる黒い煙が見えた。
その炎や煙は、その翌日までも続いていた。
一刻も早く消してほしいと心から願った。
まだ安心してはいけない。
大きな地震があった日から、ずっと小さな地震、「余震」が起きていた。
ほかにも、地鳴りが続いていた。あれほど大きく長い地震ではないが、
わりと大きめな地震が起きることもあった。
このようなことが一日に何十回も続いていた。
停電が続いているから井戸水は使えなかった。
けれど、家には山水があったので、山水を使っていた。
山に水を取りに行く人のためということで「山の水です、ご自由にくんでください」
という掲示板みたいなものを建てた。建てると、そこでくむ人もいた。
お父さんは自衛隊なので、時々家に戻っては、何日も救助に行くということが続いていた。
そしてある日のことだった。お父さんが帰ってきたら、私にこう言った。
「残念だ」
と、私はその言葉を聞いたとき、すぐに分かった。何も言えなかった。
そしてお父さんが口に出した名前は、幼稚園の頃からの友達と、そのお母さんだった。
その友達は、足も水泳もとても速かった。すごいといつも思っていた。
小学校は違ったけれど、中学校からまた同じ学校になれると楽しみにしていた。
だから聞きたくなかった。二階に上がり、幼稚園の頃にもらった色違いの
キーホルダーを握って泣いた。信じられなかった。
そしてまた信じられないことが起きた。今度は同じ小学校の友達の死だった。
その友達は、私が転校してきた時にそばにいてくれた。
そして一緒に児童会執行部に入った。彼女は児童会長になった。
話し合いの時に、私でも思いつかないほど、
すぐにみんなの意見をまとめて自分の意見も言っていた。
すごいと思った。憧れていた。
だから信じられなかった。信じたくなかった・・・。
このかけがえのない二人の友達に、私は今どうしても伝えたいことがある。
それは『ありがとう』だ。
そばにいてくれてありがとう。
支えてくれてありがとう。
遊んでくれてありがとう。
いつも優しくしてくれてありがとう。
今まで本当にありがとう。
かぞえきれないほど『ありがとう』の感謝の気持ちがある。
だから、その気持ちを忘れずに、大切にしていきたい。
Posted by いとう茂 at 11:46│Comments(0)