2017年08月06日

悪い物を見てしまいましたが・・・・・

昨日は用事で京都に行きました、時間がありましたので
伊勢丹でウインドショッピング、文具売り場で割引セールという
文字が目に入り、ここで足止めを食らいました。
結果から言うと何も買うことはありませんでした。
目に留まったのは太めの行間の便せん、これは横書きしか
手に取りませんでしたが、これはついこの前に和紙の便せんを
買ったのを思い出してスルーしました。

次に足が止まったところが帆布のトートバッグ、今は善通寺の
般若心経がプリントされたバックを日常の書類入れに使用していますが、
かなりくたびれてきましたので、そろそろ交換を考えています。
このバッグは3代目で10年以上前から善通寺を使っていますので、
周りからはいつも同じバッグにしか見えないと思います。
無造作に書類を入れているだけですが、出し入れが簡単で
軽量、そして価格が1000円と安価、売り場には1000円で
買えるバッグはありませんでしたが、それ以上に中年の
おじさんが持つのにふさわしい物がありませんでした。
目立たぬようにはしゃがぬようにさりげないのがいいのです。

最後にクギ付けになったのが万年筆売り場、これは文具売り場に行くと
いつものことですから特に問題はないのですが、試し書きが自由に
できるようになっていたのが心が騒ぐ原因でした。
普段はプラチナの太字の万年筆を使用しており、手紙や特別の時は
モンブラン149の太字で書くことにしていますし、下の娘の
結婚式でハワイにいった時に記念にとモンブランの146の太字を
買いましたのでこれ以上は不要です、そのことは自分でも
よくわかっているのですが・・・・・・・・。
セーラーのズームという太字よりさらに太い字が書ける万年筆の
試し書きをしてみて、その滑らかな書き味に・・・・・・・いいなぁ。

文字の太さも書き味もプラチナやモンブランより上のような気がして
カードなら買えるか、揺れましたが書く手は1本しかありません。
いくら美人だと言っても自分とはご縁のない人の方が世の中には
ずっと多いものです、「ないものを数えるよりもあるものを数えて
生きていく」曽野綾子の本のタイトルを思い出し買うことを
やめました。
自分が使っているものより、もっといいものはあると思います。
書き味が良くて手の馴染みもいいものがあるでしょう、それを求めて
いくのも一つの生き方で否定はしません。
しかし、今あるものを大切にして使い込んでいく、そこにも価値観は
あると思います、せっかくご縁があって私の手元に来てくれたのだから、
これからも、たった一つの大切を大切に生きていこう。
  
Posted by いとう茂 at 22:14Comments(0)人生

2013年03月26日

「涙」

3月11日の新聞の社説と1面のコラムはすべて
東日本大震災関連のものでした。
読売、朝日、毎日、産経、京都、中日、日経。

2年という時間は地震、津波、原発事故・・・・・。
そうした単語は記憶にあるものの、
海沿いの地域ではあの時のままのような気がします。

テレビに食い入るようにして見た津波が襲う光景や
原発の建屋が吹き飛んだ映像は脳裏にあるのですが、
今でも避難して暮らす住民の心や復興庁の具体的な動きや
思いは伝わってきません。

ついこの前、新聞だったと思うのですが、自分が生きた証しを
誰かに認めてほしい、今を共に生きる人たちは自分の生き様を
認めてくれてもその人たちが死んでしまえば、もう自分は
誰にも認められず、この世に存在したことすら知られない。

死者、行方不明と震災関連死で亡くなった人は約21.000人、
自己主張すらできずに亡くなっていった人が大半です。

生きている者は授かった命を全うしなければいけない。
たとえ自分の生き様を誰にも知られず、認められなくても。

被災された方にも、と強要しているのではありません。
自分自身に言っています。

そんな気持ちにさせる詩に出会いました。
昨日の朝日新聞の記事に吉永小百合さんが
香川県のハンセン病療養所、青松園を訪れて
昨年公開された「北のカナリアたち」の上映会を開催された
ことが掲載されていました。

小百合さんのご縁は、この療養所に入所している塔和子さんの詩を朗読
したことから始まりました。
4年ぶりの再会とのことでした。
その、塔和子さんの詩を紹介します。

「涙」

あるとき
死のうと思った私が夫に
「一生懸命なのよ」と言うと

夫は
「同じ一生懸命になるのなら
生きることに一生懸命になってくれ
がむしゃらに生きようではないか」と
言ってくれた

私は目が覚めたように
そうなんだと思った

どんなに懸命に生きたとしても
永遠に続いている時間の中の
一瞬を
闇から浮き上がって
姿あらしめられているだけだ

いのち
この愛(いと)けないもの

思いっきりわが身を抱きしめると
きゅっと
涙が
にじみ出た


読後、しばらく言葉が出ませんでした。

  
Posted by いとう茂 at 15:25Comments(0)人生

2013年01月18日

平成7年

二日間の研修も無事終わりました。
スクリーンとテキストを交互に見て
目がショボショボの昨日でしたが、今日は電卓と
細かい数字のにらめっこ。
もっと目がお疲れです。
おかげで、新しい知識を吸収することができました。
これが力に変わることを念じています。

昨日は阪神淡路大震災から18年目の日でした。
早朝に揺すぶられた記憶ははっきり残っています。
庭の大きな灯篭が倒れて無残な姿で転がっていました。

テレビからは立ち上る煙とヘリコプターの音が響き
情報は遅れ、何度も同じ映像が流れていたのを覚えています。

そして、その日は親父が自分の家で過ごす最後の日でした。
次の日の朝、もう何度目の入院だったか忘れましたが、
最後の入院のために送って行きました。

本人も家族も最後の入院だとは知る由もなかったのですが・・・・。

それからおよそ70日、親父は家族に看取られて安らかに逝きました。
4月6日の夕方のことです。

24時間の点滴が始まり本人も家族もそろそろ・・・・・。
それから何日後だったでしょうか。
もう記憶にありませんが、4月6日はやってきました。

さようなら親父。
もう18年です。

心に傷を負った人はその時間の倍をかけて心の傷を癒していく
そんな話を聞いたことがあります。
だとすれば親父がいつ死んでもおかしくない、
そう聞いたのは17の時でした。
その24年後に亡くなったのですが、そこからまだ18年。
あと30年しないと心の傷は癒えることはないのでしょうか。

まだあと30年、自分自身の寿命に自信がありません。

もうすっかり親父の年を抜いてしまいます。
天はそこまで私に生きろと背中を押すのでしょうか。

それもこれも、未熟な私故のことと甘受しなければ。

平成7年はある意味、人生の分岐点だったのかもしれません。

いいこともあったんですよ。
でも自慢しても帰らないあの年だからやめておきます。

かけがえのないもの。
たった一つの大切。

今噛みしめています。
失ったものの大きさや大切さに気がつくのは
愚かな人間故・・・・・失ってから。


あささん
コメントありがとうございました。
犬には飼い主を選ぶ権利はありません。
うちに来て、おなかが満ちてメタボにもならず
飼い主に安心と癒しを与え、それで命を
終わっていくペットという玩具。
人間の傲慢さも垣間見えますが、ペットはそんなことを
感じず食べて寝てじゃれています。

大きい犬だけでなく小さな犬もそうです。

あいつらが死んで私がまだ生きていたらごめん、ありがとうと
言ってやろうと思います。




  
Posted by いとう茂 at 14:57Comments(1)人生

2013年01月13日

サインに思う

アメリカの新しい財務長官のサインが話題になっています。
テレビではボールペンの試し書きのようなサインだと
酷評していました。
オバマ大統領は笑いをとりながらの記者会見でしたが
遠まわしにちくりとジョークを交えての会見が
日本人も見習うべきものかもしれません。

オリンピック誘致のプレゼンで前回の日本の
アピールは退屈だったと言われています。

まじめな話を聞くときには白い歯を見せるな。
この物差しはある程度の年齢以上の人なら
多くの人が持っているものでしょう。

その物差しを捨てるのいはためらいがありますが、
笑いながら本音が言える技術は身につけたいものです。

あと・・・・・・。
マスコミもグルグルのサインのことだけ取り上げずに
日本人が見習うものとしてオバマ大統領の会見を
もっと前面に出して報道していただきたいと思います。
ただ視聴率狙いとか話題作りとしか見えません。

それともマスコミは日本なら2・3歳児が書く字程度のサイン
しかアメリカの財務長官は書けないと本気で思っているのだろうか。

今の日本、もっと詳しく国民に知らせることがあるはずだ。
そう思うのは私だけだろうか。


  
Posted by いとう茂 at 14:07Comments(0)人生

2013年01月10日

あと1週間 1・17

1月17日まであと一週間です。
平成7年1月17日の早朝は大津も大きく揺れました。

もう18年前の出来事ですが、立ち上る煙や
横倒しになった阪神高速の映像を覚えている方も多いと思います。
商店街で炊き出しに行ったのは1週間後でした。

行きは消防車の先導で阪神高速を逆走しながら、
東灘の役場に着いたのは真夜中でした。

避難所になっていた小学校の校庭には被災した人の
姿はなく、自衛隊が風呂の用意とグランドに穴を掘り
仮設トイレを作っていました。
1000人分の鍋と400人分の焼きそばを持っていきました。

いつもは薪を燃やして鍋を焚いているのを、火事のイメージがあるからと
プロパンにしましたが火力が弱く随分待ってもらった記憶があります。

2度目は一か月後でした。
電気が通ったということなので、うどん1000食と綿菓子機をもって
同じ小学校に行きました。
うどんのダシが煮えるまでの間綿菓子を作って配っていました。
この時は7人で行きましたので、私一人別行動で隣の小学校に
綿菓子を配りに行きました。

饅頭やジュースなどの甘いものは配給であっても、綿菓子は
ありません、子どもだけでなく高齢者の方も列に並んで
いたのを思い出します。

あれから18年。
毎日の出来事への対応に忙殺されて、いろんなものへの
執着が薄くなっているのでしょうか。

南海、東南海、東海地震のことが時々報じられますが
色々な備えが必要です。

東日本と同じように津波が襲ったら、和歌山、三重それに四国、
大阪にもガレキの山ができるかもしれません。

関西連合や近畿圏でのガレキ処理の協力が必要になるかもしれません。

そのことも視野に入れて、現在執行部で検討されている
焼却場問題も考えていただきたいと思います。

色々な協議の積み重ねで地元の理解を得た焼却場ですから
先人たちの思いもくみ取っていただきたいと願います。




  
Posted by いとう茂 at 12:08Comments(0)人生