2016年01月31日
風に吹かれて
冬のいいところは空気が澄んで夜空が美しい、裸木が揺らす風に負けずに
凛と立っている、暖かさを実感できる、雪が降る、日常生活の中では
あまり関係がないことですが自分にとっては嬉しいことです。
普通は食べるものがおいしいとか、忘年会、新年会、飲む機会が増える
そんなことが一般的なものかもしれません。
冬は風に吹かれるのも好きです、春や初夏は心地よいと思う人も多いでしょうが、
この季節に風に吹かれるのが好きだと思う人は少ない気がします。
フット思い立って風に吹かれてきました、そんなことで昨日のブログはアップできませんでした。
身を刺すような風ではありませんでしたが、冬を堪能できました、
昔「風に吹かれて」という ボブ・ディランの曲がありました。
歌詞の意味は忘れてしまいましたが、レコードは探せばあると思います。
40年以上前に時々聴いていたのを覚えています、ボブディランよりキャロルキングが
好きでしたのであまりディランは覚えていませんが曲名だけは覚えています。
寒いときの風といえば、からっ風があります、、主に山を越えて吹きつける風のことで、
山を越える時に温度、気圧が下がることで空気中の水分が雨や雪となって山に降り、
山を越えてきた風は乾燥した状態となります。
空っ風といえば、上州、群馬県が有名で、「赤城おろし」とも呼ばれています。
私が吹かれていたのは空っ風とは言えないかもしれませんが、寒さとは違う次元で
気持ちよさがありました。
風に吹かれて何を考えていたのか、鮮明には覚えていませんが、ぼんやりしていたのは
確かですし、このまま時間が止まればどうなるのだろうとか、体が寒くなると心も
寒くなるのか・・・・・いつものどうでもいいようなことばかりでした。
帰りに毛糸の帽子を買ってしまいました、普段はかぶることがない帽子ですが、
毎朝の緑のお爺さんとかたまの外出にかぶろうと思い、ついつい・・・・・。
黒のニット帽を20年近くかぶっているのですが、たまには柄物もいいかと思いました。
これも風に吹かれた影響か、時間は止まりませんでしたが、流れている分、
心も動いたのかもしれません、動いた割には安い買い物でしたが・・・・・・。
明日から2月です、あっという間に過ぎた1月、選挙があったとは言っても新幹線ならぬ
超音速ジェットで飛んだ気分です。
振り返るとあまり景色が残っていません、2月は鈍行でゆっくり、そう願っても無理だろうから
先に風に吹かれて風通しをよくしておこうと思っています。
19日からは通常会議が開会します、その前にも議案の説明や勉強会、委員会もありますし、
議員の仕事以外にも用事が詰まっています、用事があるのは一向に気になりませんが、
ゆとりをなくして気持ちが苛立ってくることが困ります。
木鶏のような生き方はとてもできませんが、少しでも穏やかで平安な気持ちでいたい、
そんな願いと心がけはしているつもりですので、風に吹かれてよかったと思っています。
満足、満足、うん。
凛と立っている、暖かさを実感できる、雪が降る、日常生活の中では
あまり関係がないことですが自分にとっては嬉しいことです。
普通は食べるものがおいしいとか、忘年会、新年会、飲む機会が増える
そんなことが一般的なものかもしれません。
冬は風に吹かれるのも好きです、春や初夏は心地よいと思う人も多いでしょうが、
この季節に風に吹かれるのが好きだと思う人は少ない気がします。
フット思い立って風に吹かれてきました、そんなことで昨日のブログはアップできませんでした。
身を刺すような風ではありませんでしたが、冬を堪能できました、
昔「風に吹かれて」という ボブ・ディランの曲がありました。
歌詞の意味は忘れてしまいましたが、レコードは探せばあると思います。
40年以上前に時々聴いていたのを覚えています、ボブディランよりキャロルキングが
好きでしたのであまりディランは覚えていませんが曲名だけは覚えています。
寒いときの風といえば、からっ風があります、、主に山を越えて吹きつける風のことで、
山を越える時に温度、気圧が下がることで空気中の水分が雨や雪となって山に降り、
山を越えてきた風は乾燥した状態となります。
空っ風といえば、上州、群馬県が有名で、「赤城おろし」とも呼ばれています。
私が吹かれていたのは空っ風とは言えないかもしれませんが、寒さとは違う次元で
気持ちよさがありました。
風に吹かれて何を考えていたのか、鮮明には覚えていませんが、ぼんやりしていたのは
確かですし、このまま時間が止まればどうなるのだろうとか、体が寒くなると心も
寒くなるのか・・・・・いつものどうでもいいようなことばかりでした。
帰りに毛糸の帽子を買ってしまいました、普段はかぶることがない帽子ですが、
毎朝の緑のお爺さんとかたまの外出にかぶろうと思い、ついつい・・・・・。
黒のニット帽を20年近くかぶっているのですが、たまには柄物もいいかと思いました。
これも風に吹かれた影響か、時間は止まりませんでしたが、流れている分、
心も動いたのかもしれません、動いた割には安い買い物でしたが・・・・・・。
明日から2月です、あっという間に過ぎた1月、選挙があったとは言っても新幹線ならぬ
超音速ジェットで飛んだ気分です。
振り返るとあまり景色が残っていません、2月は鈍行でゆっくり、そう願っても無理だろうから
先に風に吹かれて風通しをよくしておこうと思っています。
19日からは通常会議が開会します、その前にも議案の説明や勉強会、委員会もありますし、
議員の仕事以外にも用事が詰まっています、用事があるのは一向に気になりませんが、
ゆとりをなくして気持ちが苛立ってくることが困ります。
木鶏のような生き方はとてもできませんが、少しでも穏やかで平安な気持ちでいたい、
そんな願いと心がけはしているつもりですので、風に吹かれてよかったと思っています。
満足、満足、うん。
Posted by いとう茂 at
16:35
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2016年01月29日
この街では暮らせない
25・26日は会派の行政視察で神奈川県の川崎市と東京に
行ってきました。
川崎市は滋賀県の人口とほぼ同じくらいの140万人が暮らしています。
公立の小中学生だけでも10万人、東京はさらに多くの人が暮らしています。
交通のアクセスも買い物も便利ですし、外食も何を食べるか、どこで食べるか
選択肢の多さに私などは戸惑ってしまいます。
何でもある、どこに行くにも便利、生活をするにはこの上ない環境ですが、
自分の中では生活と暮らすは意味が違います。
インフラや買い物など物理的な充足は生活に不可欠な要素ですが、
暮らすとなるとのんびりとか潤い、あるがままの自然など違う要素が
必要になります、よく整備された公園、広い道路と歩道、夜でも
明るいまち、遅くまで運行している電車、そうした便利さや快適さ
安全面の整備とは裏返しの何もないけど星がきれい、ポツンとともる
街灯、静かな夜、未舗装の土の道、そんなものへの郷愁からか
強い憧れと執着があります。
便利さかのんびりか、個人によって選択が分かれると思いますし、
自分の思いを強制するつもりはありません。
ただ、地下鉄の出口から次から次へ、途切れなく人が出てくる光景や
3車線の車道に渋滞で車が止まり、歩く人が止まっている車を追い抜く
日常を見たり、23時を回っても歩道を気を付けて歩かないと人と
衝突してしまう人の流れを見ると、もううんざり。
とてもこの街では暮らせない。
四角い空も見慣れれば発想が広がるのでしょうか。
そこから見上げた夜空に浮かぶ月に願いが届くのでしょうか。
年を重ねるごとに短気でせっかちになりますが、動きは鈍くなります。
車で何分という発想は捨てて、歩いて何分、歩くには遠すぎる、
それなら行くのをやめる選択、ゆっくり生きる。
誤解されると困りますが、何もしないでゆっくり生きることとは違います。
同じことをするにしてもゆっくり念入りにする、そういうことです。
一期一会、人との出会いだけでなく日常の仕事とも一期一会です。
この仕事はこの先もうすることはない、そんな仕事もあるでしょう、
丁寧に生きる、それにはやはり「のんびり」は不可欠ですし、
そのためには大都会では暮らすことはできません。
欲しいものがより早く、より安く手に入る、このことが生活するのには必要な
場合があるかもしれません。
しかし、今暮らしている地域でも、日常生活には、ほぼ十分なものが
半径500メートルで揃います、嗜好品やぜいたく品も電車で30分以内の
距離で手にはいる、これで満足です。
イソップ物語の田舎のネズミかもしれませんが、それが相応かと思っています。
行ってきました。
川崎市は滋賀県の人口とほぼ同じくらいの140万人が暮らしています。
公立の小中学生だけでも10万人、東京はさらに多くの人が暮らしています。
交通のアクセスも買い物も便利ですし、外食も何を食べるか、どこで食べるか
選択肢の多さに私などは戸惑ってしまいます。
何でもある、どこに行くにも便利、生活をするにはこの上ない環境ですが、
自分の中では生活と暮らすは意味が違います。
インフラや買い物など物理的な充足は生活に不可欠な要素ですが、
暮らすとなるとのんびりとか潤い、あるがままの自然など違う要素が
必要になります、よく整備された公園、広い道路と歩道、夜でも
明るいまち、遅くまで運行している電車、そうした便利さや快適さ
安全面の整備とは裏返しの何もないけど星がきれい、ポツンとともる
街灯、静かな夜、未舗装の土の道、そんなものへの郷愁からか
強い憧れと執着があります。
便利さかのんびりか、個人によって選択が分かれると思いますし、
自分の思いを強制するつもりはありません。
ただ、地下鉄の出口から次から次へ、途切れなく人が出てくる光景や
3車線の車道に渋滞で車が止まり、歩く人が止まっている車を追い抜く
日常を見たり、23時を回っても歩道を気を付けて歩かないと人と
衝突してしまう人の流れを見ると、もううんざり。
とてもこの街では暮らせない。
四角い空も見慣れれば発想が広がるのでしょうか。
そこから見上げた夜空に浮かぶ月に願いが届くのでしょうか。
年を重ねるごとに短気でせっかちになりますが、動きは鈍くなります。
車で何分という発想は捨てて、歩いて何分、歩くには遠すぎる、
それなら行くのをやめる選択、ゆっくり生きる。
誤解されると困りますが、何もしないでゆっくり生きることとは違います。
同じことをするにしてもゆっくり念入りにする、そういうことです。
一期一会、人との出会いだけでなく日常の仕事とも一期一会です。
この仕事はこの先もうすることはない、そんな仕事もあるでしょう、
丁寧に生きる、それにはやはり「のんびり」は不可欠ですし、
そのためには大都会では暮らすことはできません。
欲しいものがより早く、より安く手に入る、このことが生活するのには必要な
場合があるかもしれません。
しかし、今暮らしている地域でも、日常生活には、ほぼ十分なものが
半径500メートルで揃います、嗜好品やぜいたく品も電車で30分以内の
距離で手にはいる、これで満足です。
イソップ物語の田舎のネズミかもしれませんが、それが相応かと思っています。
Posted by いとう茂 at
20:35
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2016年01月28日
Voice
ボイス、声です、大きい声、小さい声、綺麗な声、艶っぽい声、
いろんな声があります、自分の声を聞いて、エッこんな声?と
自分の声に驚いたり違和感を持ったりすることもあります。
隣の人の心の声を聞いたことがあるか、気にかけていないと
気づかずに通り過ぎてしまうことの方が多いように思います。
隣の人が全く他人ならそれも仕方ないでしょうが、自分に
近い人、大切な人なら声だけでなく表情も普段から気にかけて
見ていますが、それでも見落とすことがあります。
何気ない一言で相手は大きく心が揺れているのに、作り笑いを
されたり、話題を変えられたりすると、その時を逸してしまいがちです。
「そんなに気を悪くしていたのなら、あの時に言ってくれればよかったのに」
よくある話ですが、結局は気づかなかった自分の責任です。
こうしたことの積み重ねが距離を遠くしてしまうことも知っています。
結果として遠くなることはわかっていても、相手の心のつぶやきや動揺に気づかない、
このことは、ある一定の年齢に達したら気づかなかったではすまされない、
そんなことを思います。
気の置けない人ですから、こちらも遠慮なくものが言えますし相手もそうでしょう。
だからこそ、大切に話を聞かなければいけないと思います。
話の内容だけでなく、声の大きさや張り、速度、表情・・・・・。
案外普通に素通りしてしまっていることがあります。
親しき中にも礼儀あり、相手を思いやる、気遣うということは、相手にも
こちらを思いやり気遣う気持ちが芽生える、そう考えるのは早計でしょうか。
こちらが小さな変化に気付くから、相手にも自分のことを考えていてくれるという
嬉しさとより強い信頼感が出てくるように思います。
声と音、どちらも口から出るものですが、声を音として聞いていないか、
しっかり言葉や相手の気持ちを理解して聞いているか、これも積み重ねです、
いつも騒々しいからと言っていい加減に聞き流していては、変化に気づかずに
あとで大きな傷になったり人間関係を悪くしてしまいます。
どんなに親しい人でも言わなければわからないことと言わなくてもわかることがあります。
日頃の距離感を保つ努力は、親しさの度合いによるものでしょうが、この世の出会いは
この世限りです、かけがえのない人、大切な人を気遣っているか、思いやっているか、
声には出さずに、改めて自問です。
いろんな声があります、自分の声を聞いて、エッこんな声?と
自分の声に驚いたり違和感を持ったりすることもあります。
隣の人の心の声を聞いたことがあるか、気にかけていないと
気づかずに通り過ぎてしまうことの方が多いように思います。
隣の人が全く他人ならそれも仕方ないでしょうが、自分に
近い人、大切な人なら声だけでなく表情も普段から気にかけて
見ていますが、それでも見落とすことがあります。
何気ない一言で相手は大きく心が揺れているのに、作り笑いを
されたり、話題を変えられたりすると、その時を逸してしまいがちです。
「そんなに気を悪くしていたのなら、あの時に言ってくれればよかったのに」
よくある話ですが、結局は気づかなかった自分の責任です。
こうしたことの積み重ねが距離を遠くしてしまうことも知っています。
結果として遠くなることはわかっていても、相手の心のつぶやきや動揺に気づかない、
このことは、ある一定の年齢に達したら気づかなかったではすまされない、
そんなことを思います。
気の置けない人ですから、こちらも遠慮なくものが言えますし相手もそうでしょう。
だからこそ、大切に話を聞かなければいけないと思います。
話の内容だけでなく、声の大きさや張り、速度、表情・・・・・。
案外普通に素通りしてしまっていることがあります。
親しき中にも礼儀あり、相手を思いやる、気遣うということは、相手にも
こちらを思いやり気遣う気持ちが芽生える、そう考えるのは早計でしょうか。
こちらが小さな変化に気付くから、相手にも自分のことを考えていてくれるという
嬉しさとより強い信頼感が出てくるように思います。
声と音、どちらも口から出るものですが、声を音として聞いていないか、
しっかり言葉や相手の気持ちを理解して聞いているか、これも積み重ねです、
いつも騒々しいからと言っていい加減に聞き流していては、変化に気づかずに
あとで大きな傷になったり人間関係を悪くしてしまいます。
どんなに親しい人でも言わなければわからないことと言わなくてもわかることがあります。
日頃の距離感を保つ努力は、親しさの度合いによるものでしょうが、この世の出会いは
この世限りです、かけがえのない人、大切な人を気遣っているか、思いやっているか、
声には出さずに、改めて自問です。
Posted by いとう茂 at
12:51
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2016年01月27日
涙の行方
人は泣きながら生まれてきます、最初に発する声がオギヤァー。
そして本人も周囲も涙して誕生の瞬間を実感します。
生まれてから私たちは何度くらい涙を流すのでしょう。
鬼の目にも涙、ということわざがあります、思いやりがなく、ひどく冷たい人でも、
他人の苦しみや 悲しみに、同情して、涙を流すこともあるというたとえですが、
ほとんど泣くことのない鬼でも時には泣くことがある、鬼でさえ泣くのに
人間なら泣いて当然、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」。
鬼が善人とは言いませんが、歎異抄のフレーズと似ています。
涙の入ることわざは鬼しか思いつきませんが、涙の入る熟語は、
涙腺・感涙・血涙・催涙・熱涙・落涙・涙雨・涙声・・・・・ほかにもたくさんありそうです。
涙を流す理由は人それぞれケースによって違うでしょうが、悲しみのどん底で、ただ泣くしかない、
そんな辛い日々を過ごした人もいるでしょうし、涙も枯れ果てるという表現もあります。
枯れたはずの涙はやはり出てくるものなのでしょうか。
涙が乾く間がないという表現も目にしたことがあります。
朝の来ない夜はない、やまない雨もない、乾かない涙もない。
すべて時間がたてばということですが、流した涙はどこに行くのでしょう。
物理的には蒸発するのでしょうが、頬を伝いこぼれ落ちた涙の行方はどこでしょう。
悲しい涙か嬉しい涙で行方も違うのでしょうが、悲しくて泣いて、泣いて、流した
涙は種になる、そう思います。
悲しい涙が嬉しい涙に変ってくれる日、そんな日が来るのを期待して待ち続け、
嬉しい日が来たなら悲しい涙の種が花開いた、そんな風には考えられない
でしょうか。
悲しい涙を悔し涙と読み替えても良いかもしれません。
種になるのなら涙も流し甲斐があるかもしれませんが、多くの涙は悲しみを増幅するか、
別の道を歩むための訣別の一歩になるように思います。
悲しい涙や悔し涙を嬉しい種にするには、涙を無駄にしないという決意が必要になります。
自分ひとりの努力で夢に近づくのなら、さらに精進する覚悟がいるでしょうし、
何人かで夢を実現させようとするなら、同じ方向を向き同じ気持ちを共有して
歩き出さなければならないように思います。
一度や二度の挫折や絶望感はあるでしょう、それにめげずに夢を追い続けることで
種は開花する、日本的な発想かもしれませんが、念ずれば花開く、このことを
個人的にはずっと信じています。
信じ続けるには信ずるに足りる何かが必要です、手応えというのでしょうか、
確かな何かが必要です、確かなものは具体的なこともあれば抽象的な場合も
あります、いずれにしても信じる心はしっかり持っていなければいけないと思っています。
それは強要されるものではなくてあくまで自分が持つべきものでしょう。
時に、信じたい気持ちを信じられるものと思い込ませて自分を納得させる場合もあります。
それは、執着と保身さらには前に進むための自分への言い訳かもしれません。
涙の行方からそれてきました。
大切な人や同じ思いの人が涙しているのを見て、もう泣かせない、そう誓う人にとって、
目に浮かぶ涙の行方は成就の瞬間を見据えていると思います。
もちろん、成就までの苦労や困難に立ち向かう時間と努力も覚悟の上で。
流した涙を無駄にしたくないのは、流した人だけでなく見守る人、傍にいる人も同じです。
見守る人や誰かが傍についていてくれたら・・・・・・。
涙の行方は明るい方でしょう。
そして本人も周囲も涙して誕生の瞬間を実感します。
生まれてから私たちは何度くらい涙を流すのでしょう。
鬼の目にも涙、ということわざがあります、思いやりがなく、ひどく冷たい人でも、
他人の苦しみや 悲しみに、同情して、涙を流すこともあるというたとえですが、
ほとんど泣くことのない鬼でも時には泣くことがある、鬼でさえ泣くのに
人間なら泣いて当然、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」。
鬼が善人とは言いませんが、歎異抄のフレーズと似ています。
涙の入ることわざは鬼しか思いつきませんが、涙の入る熟語は、
涙腺・感涙・血涙・催涙・熱涙・落涙・涙雨・涙声・・・・・ほかにもたくさんありそうです。
涙を流す理由は人それぞれケースによって違うでしょうが、悲しみのどん底で、ただ泣くしかない、
そんな辛い日々を過ごした人もいるでしょうし、涙も枯れ果てるという表現もあります。
枯れたはずの涙はやはり出てくるものなのでしょうか。
涙が乾く間がないという表現も目にしたことがあります。
朝の来ない夜はない、やまない雨もない、乾かない涙もない。
すべて時間がたてばということですが、流した涙はどこに行くのでしょう。
物理的には蒸発するのでしょうが、頬を伝いこぼれ落ちた涙の行方はどこでしょう。
悲しい涙か嬉しい涙で行方も違うのでしょうが、悲しくて泣いて、泣いて、流した
涙は種になる、そう思います。
悲しい涙が嬉しい涙に変ってくれる日、そんな日が来るのを期待して待ち続け、
嬉しい日が来たなら悲しい涙の種が花開いた、そんな風には考えられない
でしょうか。
悲しい涙を悔し涙と読み替えても良いかもしれません。
種になるのなら涙も流し甲斐があるかもしれませんが、多くの涙は悲しみを増幅するか、
別の道を歩むための訣別の一歩になるように思います。
悲しい涙や悔し涙を嬉しい種にするには、涙を無駄にしないという決意が必要になります。
自分ひとりの努力で夢に近づくのなら、さらに精進する覚悟がいるでしょうし、
何人かで夢を実現させようとするなら、同じ方向を向き同じ気持ちを共有して
歩き出さなければならないように思います。
一度や二度の挫折や絶望感はあるでしょう、それにめげずに夢を追い続けることで
種は開花する、日本的な発想かもしれませんが、念ずれば花開く、このことを
個人的にはずっと信じています。
信じ続けるには信ずるに足りる何かが必要です、手応えというのでしょうか、
確かな何かが必要です、確かなものは具体的なこともあれば抽象的な場合も
あります、いずれにしても信じる心はしっかり持っていなければいけないと思っています。
それは強要されるものではなくてあくまで自分が持つべきものでしょう。
時に、信じたい気持ちを信じられるものと思い込ませて自分を納得させる場合もあります。
それは、執着と保身さらには前に進むための自分への言い訳かもしれません。
涙の行方からそれてきました。
大切な人や同じ思いの人が涙しているのを見て、もう泣かせない、そう誓う人にとって、
目に浮かぶ涙の行方は成就の瞬間を見据えていると思います。
もちろん、成就までの苦労や困難に立ち向かう時間と努力も覚悟の上で。
流した涙を無駄にしたくないのは、流した人だけでなく見守る人、傍にいる人も同じです。
見守る人や誰かが傍についていてくれたら・・・・・・。
涙の行方は明るい方でしょう。
Posted by いとう茂 at
13:45
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2016年01月26日
3本のジーパン
5年前にスラックスを3本とジーパンを3本いただきました。
サイズが小さくなって入らなくなったので私に履いてほしいと
いうことでした、従姉妹が持ってきてくれたのですが、なんでも
ブランドものとかで高い物だと言っていました。
ブランドには何のこだわりもありませんので猫に小判です。
せっかく頂いたものなので、さっそく履こうと思ったのですが、
私にもサイズが小さくホックが止まりません。
ジーパンの方は高校の時のサイズでしたし、スラックスの方も
3・4センチ細くて、こちらも無理でした。
しかし、その時に変な負けん気を出して、必ず履いてやると
決めました。
それから3年余りでスラックスの方は履ける体になりました。
20歳のころのウエストになり、お腹もへこみました。
特別なことはしていませんが週に一度だけ軽めの昼食にしていた
結果で体はいたって健康で悪いところはありません。
お気に入りのスラックスになり、結構多く履いています。
問題はジーパンの方です、高校の時はウエストが76センチで
とても入るとは考えていませんでした。
この前にジーパンのことを思い出して昔のことを考えていて、
そう言えば、あの頃はお尻と太ももがウエストで合わすと
入らず、太ももで合わせてウエストを詰めていたのを思い出しました。
恐る恐るジーパンに足を通すと腰まで上がりホックも楽に止まります。
問題はジーパンの長さです、もとのご主人は私より背が高く180センチ以上あり、
かなり丈が長くスラックスの方もエッというほど切りました。
スラックスもジーパンも裾の細いタイプで抵抗なく受け入れることができました。
身長差は10センチほどですので、ズボン丈は2で割って5センチのはずが・・・・。
ほぼ10センチ、ということは胴の長さが同じ?
私だって、後10センチ身長が高ければ足だけ伸びていたに違いない?
ともあれ、スラックスとジーパンを合わせて6本、手持ちが増えました。
TPOに合わせてということはあまり考えませんので、思わぬところで
人目にさらされて、面喰らうかもしれませんが、これもご縁とあきらめて
もらうしかありません。
怨むなら前のご主人を怨めばいい。
毎週一度の軽い昼食だけで、ウエストが細くなったとは思いませんが
何事もやろうという気持ちが大切だと改めて感じました。
リバウンドもなく、ここ6・7年で6・7キロ痩せてきました。
1年1キロ、まさか10年で10キロも痩せることはないと思いますが、
最近はもう少しだけ太ってみようと考えています。
あればあったである悩み、なければないでない悩み、よくよく人間は
業の深い生き物のようです。
サイズが小さくなって入らなくなったので私に履いてほしいと
いうことでした、従姉妹が持ってきてくれたのですが、なんでも
ブランドものとかで高い物だと言っていました。
ブランドには何のこだわりもありませんので猫に小判です。
せっかく頂いたものなので、さっそく履こうと思ったのですが、
私にもサイズが小さくホックが止まりません。
ジーパンの方は高校の時のサイズでしたし、スラックスの方も
3・4センチ細くて、こちらも無理でした。
しかし、その時に変な負けん気を出して、必ず履いてやると
決めました。
それから3年余りでスラックスの方は履ける体になりました。
20歳のころのウエストになり、お腹もへこみました。
特別なことはしていませんが週に一度だけ軽めの昼食にしていた
結果で体はいたって健康で悪いところはありません。
お気に入りのスラックスになり、結構多く履いています。
問題はジーパンの方です、高校の時はウエストが76センチで
とても入るとは考えていませんでした。
この前にジーパンのことを思い出して昔のことを考えていて、
そう言えば、あの頃はお尻と太ももがウエストで合わすと
入らず、太ももで合わせてウエストを詰めていたのを思い出しました。
恐る恐るジーパンに足を通すと腰まで上がりホックも楽に止まります。
問題はジーパンの長さです、もとのご主人は私より背が高く180センチ以上あり、
かなり丈が長くスラックスの方もエッというほど切りました。
スラックスもジーパンも裾の細いタイプで抵抗なく受け入れることができました。
身長差は10センチほどですので、ズボン丈は2で割って5センチのはずが・・・・。
ほぼ10センチ、ということは胴の長さが同じ?
私だって、後10センチ身長が高ければ足だけ伸びていたに違いない?
ともあれ、スラックスとジーパンを合わせて6本、手持ちが増えました。
TPOに合わせてということはあまり考えませんので、思わぬところで
人目にさらされて、面喰らうかもしれませんが、これもご縁とあきらめて
もらうしかありません。
怨むなら前のご主人を怨めばいい。
毎週一度の軽い昼食だけで、ウエストが細くなったとは思いませんが
何事もやろうという気持ちが大切だと改めて感じました。
リバウンドもなく、ここ6・7年で6・7キロ痩せてきました。
1年1キロ、まさか10年で10キロも痩せることはないと思いますが、
最近はもう少しだけ太ってみようと考えています。
あればあったである悩み、なければないでない悩み、よくよく人間は
業の深い生き物のようです。
Posted by いとう茂 at
18:41
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