2015年03月31日

3月31日の記事

今日の午前中は特別会議がありました、年度末の最後の日です。
国の法律改正に伴い大津市の条例改正や消費税の増税が
先送りされたことに伴い原付自転車の税金の先送りなどの
議案が承認されました。

これで、任期中の審議がすべて終わりました。

昨日は保護観察所の人事異動にともなう送別会でした。
その中で、保護司としての使命感や立ち直りの嬉しさ、そんな話のほかに、
死ぬ時はコロリと死にたい、そんな会話もありました、
二人に一人がガンになり、三人に一人がガンで死ぬ時代です。
山頭火のように「コロリ往生」を願う人の気持ちは分かります。

生まれてくる場所や時期が選べないように死ぬ場所や死に方も
選べないのかと思いますが、昔、子どもはこの親でいいのか
親はこの子でいいのか確認して、この世に生を授かる
という話を聞いたことがあります。

どちらが真実か、と考えるよりどちらを選択した方が心が
軽くなるか・・・・・。
個人的には確認して生を受ける方を選択したい気持ちがあります、
生まれる選択があるということは死ぬ選択もある、少し安易な考えか。

更生保護の世界も少しずつ変化が出てきました、一般質問で
保護観察対象者の市役所での雇用について3度、質問を行いました。
これは法務省で保護観察対象者を雇用したことが契機で、
大津市だけでなく全国いくつかに自治体でこうした動きがあります。
滋賀県では大津市と滋賀県でこうした質問がされています。

実際に臨時職員として雇用している自治体も徐々に増加しています、
引き続きこの問題は訴えていきたいと考えています。
また、行政の総合評価方式の入札制度で総合評価の項目に
保護観察対象者を雇用している協力雇用主の項目は
先の通常会議の一般質問で追加するという答弁をいただき、
保護観察所の方にも市長名で追加の案内があったということです。

少しずつですが社会の中で光が当たらない人に光が当たるように
改善が進んでいます、今後は保護観察対象者だけでなく、
例えば虐待などで児童養護施設で暮らしている子どもたちにも
光が当たるように活動の幅を広げたいと思います。
養護施設は入所制限があり18歳になるとでなければいけません、
その段階で自立が求められますが、心に傷を負った子供が
いきなり社会で普通に暮らすにはハードルが高いものがあり、
寄り添う企業や人が必要です。

そうした寄り添う制度や援助が分かりやすい形で提示できるように
したいと考えています。
昨日の送別会でも協力雇用主の優遇制度については
皆さんから評価していただきました、今後、県内各保護区の協力体制の
強化と連携が進み、協力雇用主の数が増加していくと思います。

せっかく選択して生まれてきた人が光が当たらないまま生きていかないといけない、
その事は悲しく辛いことだと思います。
自分の人生、それぞれが主役にならないと。
  
Posted by いとう茂 at 16:33Comments(0)

2015年03月30日

3月もあと・・・・

3月も今日と明日の二日になりました。
この前、お正月だと思っていたらもう4月です。
今日は3時半から会派の勉強会です、明日は10時から
特別会議がありますので、それの事前審議です。

4月に入ると入学式に入園式、その前に5日は「膳所さくらまつり」、
12日は奈良県で研修、13日は子どもの太鼓の卒団式・・・・・・。
3日からは県議会議員選挙が始まります。
私の出番は19日ですが、あっという間にその日が来そうです。

午前中は消費税の申告に行ってきました。
時間を節約するのには計画を立てることは大切ですが
自分がどう動くかルートをイメージすることも欠かせません。

昨日は事務所開きを行いました、神事に続いて多くの方から
激励をいただき「心新たに・・・・・」そんな気持ちです。

4年に一度の審判は議員の宿命ですが、辛いことより、
人の情けが身にしみるほうが多いのも選挙です。
応援してくださる方にとっても応援のしがいがある人間で
あらねばと思う気持ちと、応援に対してぜひとも応えなければという
責任感があります。

審判を受ける側と下す側、断然、受ける側の人間のほうが
少ないのですが、一度きりの人生の中で受ける側にいることが
結果は別として、ある種幸運なことだと感謝しています。
こんなことを書くと「何をのんきなことを言っている、選挙は
勝ってこそ意味がある」そんな声が聞こえてきそうですが・・・・。

話題を変えましょう。
最近、気温が上がり池の水もぬるんだのか金魚が
活発に動いています、大雨が降ると池があふれて、そのたびに
池から逃げた金魚は水が引くと石の下などで死んでしまいます。
なるべく逃げられないよう金網などでガードはしていますが、
時には金網の隙間から逃げ出した金魚が隙間が分からず、
もとに戻れず死んでしまうこともあり、ガードもよしあしというところです。

そんな試練を生き延びたのは3尾で、昨年の今頃は確か7尾いたと思います。
出目金が2尾と緋ブナが1尾で覗くと顔を出したり隠れたり。
人間で言うなら学校の体育館に三人で暮らしている、
そんなスペースですが毎日何を考えているのか・・・・。
一段落したら弁当持参で池の中を覗いていたい気持ちもあります。

もっとも、金魚にすれば迷惑な話かもしれません。

小さい犬のいる場所が事務所になり、私が寝ている部屋の前の
廊下に居場所が移りました、こちらは半坪ほどのネットの中に
餌と水を置いてもらい下にはシートを敷いています。
犬の大きさから考えると30坪ほどのスペースに、一人で
いるような感じでしょうか、ネットの一番前に陣取って
誰か来ないかずっと待っている姿がいじらしく、
ついかまってしまいますが、そうするとキャンキャンうるさいこと。

仕方なく目を合わさないように前を通ります。
ペットによって癒される部分がある以上、ペットも癒してやる
責任が飼い主にはあります。
その事は十分承知していますので夜は、事務所で放し飼い。
甘さと優しさは紙一重・・・・。



  
Posted by いとう茂 at 12:22Comments(0)

2015年03月29日

抜粋のつづり74集

ハンセン病患者に寄り添っていきた精神科医、
神谷美恵子さんの著作は今も読み継がれている。
私は半世紀近く前、岡山県瀬戸内市のハンセン病療養所
「長島愛生園」で彼女と共に働いた。

その時の感銘は忘れられない。
12日は生誕100年。
病に苦しむ人の心を支え、共に歩んだ神谷先生の横顔を紹介したい。
「なぜ私たちでなくあなたが?あなたは代わってくださったのだ」。
太平洋戦争中の43年、東京女子医学専門学校に在学中だった
先生が愛生園を訪れたときに書いた志の一節だ。

感染への恐怖からハンセン病に対する偏見や差別が激しかった時代。
卒業後、愛生園で働くことを望んだが、後に文部大臣を務めた父、
前田多門の反対などで叶わず、東大精神科医局に入る。
51年、大阪大教授に就いた夫の神谷宣郎さんに付き添い兵庫県に転居。
大阪大で研究生になった。
その後、愛生園行きが実現。
57から72年に瀬戸内海の長島に通ってハンセン病医療に携わった。

私は医師向けの会報を通じ先生が愛生園で働ける
精神科医を探していることを知り、連絡を取った。
62年、島に同行してすぐに勤務したい、と申し出た。
先生は津田塾大教授に就いたが、愛生園からは離れなかった。
私と交代で週末になると島に通っていた。

当時、園には1,500人ほどの患者がいた。
外来診療のあと、往診に出向くことも多い。
当直の日は痛みを訴える人から呼び出される。
私は原動機付自転車で島内を移動したが、
先生は何キロメートルも歩いて往診していた。
そのうち愛生園の隣にある邑久光明園、高松市沖合の大島青松園でも
往診するようになった。
兵庫県の自宅から愛生園まで5時間。
船で移動するだけでも大変だが、先生は弱音や愚痴を一切口にしなかった。

診察の合間には園内のライトハウス(失明者の集会所)に立ち寄り、
患者に話しかける、ハンセン病に続いて失明を宣告された人の苦しみに寄り添い、
支えた、悩みの相談にも親身に応じた。
患者だけでなく、看護師や職員も先生の来園を待ちわびているようだった。

先生の話には相手が喜びを感じ、清らかな気持ちになる不思議な力があった。
私もそう感じた1人、話しているうちに幸福感に包まれ
「この時間がずっと続いて欲しい」と思ったことがある。
誰とでも自然に話を合わせられる人だった。

たまたま私が不在の時電話を受けた妻が20分ほども話し込んで感激したと言う。
内容は今晩のおかずや家事全般についての会話だった。
数ヶ国語は堪能で、世界の哲学や思想文学の古典にも通暁した教養人。
でも主婦の本分を失わない。
買い物かごにいつもメモ用紙と鉛筆を入れ、思いついた事はすぐにメモし、
家事を済ませた後で整理していたと言う。

阪大時代は料理を作ったり育児をしたりするあいまに勉強していたようだ。
「私はながら族のはしりよ」といっていた。
数々の著書や訳書は、文字通り寸暇を惜しんで書いたものだと思う。
愛生園での先生は、まるで入園者に負い目を感じているように献身的だった。
生きがいを喪失した人、激しい痛みに襲われながら次第に失明して行く人らに向き合い、
発する一言半句を漏らさず受け止めた。
「なぜ生きなければならないのか」と考えるギリギリの心理状況では、
生半可な精神療法は無力だ。

共に苦悩していた先生の英知、全人格とでも言うべきものが患者の心の支えになっていた。
優れた教育者、研究者であると同時に、実践の人でもあった。
愛生園に来て故郷に帰れずに亡くなった人が眠る長島の万霊山に一緒に登った。
「もし許されるなら、私の骨でもここに納めてもらいたい」と語っていた姿が忘れられない。
先生が亡くなった時、宣郎さんから「葬儀は高橋先生にお願いしてほしいと言われていた」とお聞きし、
形式の決定や進行を手伝わせていただいた。
遺言とのことで蔵書も譲り受け、理事長を務める茨木病院の一角に置いている。
精神医学の貴重な本があり、今でも研究者が閲覧を求めてくる。
私の人生は先生との出会いが変わった。
茨木病院に戻ってからも「光明園に月に1度は行って欲しい」と言う先生の言葉を守り、
2005年まで通い続けた。
今は息子が引き継いでいる。
自宅に2つ、病院の机上に1つ、先生の写真がある。
多くの患者同様、私も先生に支えられて生きてきた
  
Posted by いとう茂 at 19:33Comments(0)

2015年03月28日

今日はお出かけです

今日は長浜まで出かけます、着物の女王の審査会があります。
議員という立場ではなく、大津呉服小組合の理事長という立場です。
審査員を依頼されているのですが5時30分から会合があり、
4時には向こうを出なくてはいけませんので、場合によっては
審査員を辞退しなければいけないと思いながらの出発です。

出場者にとっては晴れ舞台です。
いい加減なことをしては皆さんに申し訳がありません。
車か電車か悩んでいます。
車のほうが気楽ですが電車だと1時間あまり、駅から歩いても10分ほど
ここは、電車にします。

会場は黒壁の中の曳山展示館、大通寺もいいのですが、
導線を考えると展示館に分があります。
天気も心配なさそうですのでボンヤリ風景を見ながら行ってきます。

明日は事務所開きです、こちらは雨模様、雨降って地固まる。
雨空の上には晴れた空が広がっています、なんでも前向きに
ポジティブに考えることにします。
ジョセフマーフィーではありませんがよいことを思えばよいことが起こり、
悪いことを思えば悪いことが起きる。

潜在意識に話しかけるのは常に前向きな言葉、豚もおだてりゃ
木に登るではありませんが・・・・・顔晴ります。

昨夜の月はほぼ半月でした、つい3日ほど前は誰かの目の
ように控えめな細い月だったのに・・・・・。
月の満ち欠けという言葉があります、
誰が最初にそう呼んだのかは知りません、古人が満ちていく月に
希望を重ね、欠けていく月に悲哀を重ねていた気がします。

現代人はどんなものに希望や悲哀を重ねるのでしょう。
野球ファンなら昨日から開幕したプロ野球のご贔屓球団の勝敗でしょうか、
朝陽に希望を感じ夕陽に悲哀を感じるという人は多いと思いますが、
個人的には夕陽のほうが好きです、朝寝坊だから朝陽が嫌いというのではなく、
沈んでいく夕陽が山の端から姿を消し、西の空には茜色が残っています。
そんな光景に明日への希望を感じます、もちろん希望だけでなく
滅び行く今日への悲哀もありますが、明日への期待のほうが勝っています。

長浜からの帰りに夕陽が見られるかどうか分かりませんが、
もし見ることができたら明日への希望をいただきたいと思います。



  
Posted by いとう茂 at 10:01Comments(0)

2015年03月27日

四国遍路⑮

今年も行けるか、予定は未定、霧の中。
行けることを夢見て四国遍路の回想文です。

みなみ旅館で朝食をとり、海部駅までブラブラ歩きます。
昨日の夕食では親子連れが一組いましたが、私が早かったので
朝は一人でした。
川を覗くとボラが群れで泳いでいます、このあたりは水泳場なのか、
他府県ナンバーの車があちこちに駐車しています。

甲浦駅で何人か降りましたがバスに乗るのは私だけでした。
待合室でしばらく座っているとバスがやってきました、
ここから24番最御崎寺まで歩けば1泊2日の行程です、
バスは太平洋を左に見て進みます、途中、見覚えのある
光景がいくつかあり、青年大師像で下車しました。

ここから御厨人窟(みくろど)まで歩きます、ここは空海が
若い頃修行をし悟りを開いた場所といわれています。
洞窟が二つあり片方で生活をしてもう片方で修行をしたと
言うことですが、真っ暗な洞窟は夏でもいくらか涼しく
線香の香りが残っています。

程なく24番の上り口です、南国を思わせる木の葉っぱが
一杯繁っています、かなり急なのぼりですが一度登っているので
様子は分かっています、経験しているということは貴重な
ことだと気付かせてくれます、これが一度だからそう思いますが、
10回とかになると慣れが出て失敗することもあるかもしれません。

威厳がある山門をくぐると広い境内にパラパラと人がいます。
本当は室戸の灯台にも行きたいのですが、歩いていると一歩たりとも
無駄な歩きはしたくない、そう思ってしまいます。
お参りを済ませ御朱印を頂き25番津照寺までは裏口から出ます。
ここは、車遍路の道で駐車場になっています。

九十九折の坂から見る太平洋は高度も高いせいもあり
遠くまで見渡せ、疲れも忘れるくらいです。
右に左に曲がり人や建物がだんだん大きくなります。
25番までは約1時間30分の歩行です、ここも道端の電柱に
遍路マークが貼ってあり地図よりマークを探しながら歩きます。

25番の手前に銀行がありました、実は太龍寺に上る途中で
汗をかきすぎて財布がドボドボになり1万円札が真っ黒になりました。
銀行で両替機に入れても識別しません、窓口に行き事なきを
得ましたが、使うに使えない1万円札が3枚。
銀行員は一目見ただけで真券かわかるようです。

もう100Mほどで到着します。



  
Posted by いとう茂 at 14:28Comments(0)