2015年05月31日

見慣れた風景

昨日は夕方に膳所公園まで散歩しました。
公園の入り口で缶コーヒーを買って、奥の琵琶湖が
一望できるベンチに座ってボンヤリしていました。
若い人がバス釣りに興じていましたが、なかなか釣れません。
足元でスズメが昆虫を突っついています、ピョンピョン、
そういう表現が良いのか、すずめは歩けません、
「初雪や二の字二の字の下駄のあと」ではありませんが、
両足をそろえてしか移動できません。

足からわずか30センチほどのところをピョンピョン、
ちらちら、こちらを見上げて、敵意がないことを
確認して安心したのか逃げ出そうとしません。
こちらも動くと飛んでいきそうなので、じっとしていました。
ベンチの下に入ったり右から左、左から右と移動したり
遊んでくれとせがんでいるようでした。

何気なく見ている琵琶湖ですが、周囲をよく見ると
子どもの頃とはずいぶん変わっていることに気がつきます。
向こう岸は50年程前にはロイヤルオークもなくパワーセンターも
ありませんでした、三洋電機のネオンが国道のすぐそばにあったのと
胃腸病院しか記憶にありません。

今は建物が密集しているロードサイドも、ずっと田園が続いていて、
今の風景がずっと昔からあるように感じてしまうのが不思議で、
懸命に思い出して今の建物を消していくと白黒写真のような
レトロな風景が浮かんできます。

人間は慣れと順応、その二つで過去を忘れ今に馴染んでしまう。
今を生きているのですからそれでいいのかもしれませんが、
何か大切なものを過去に置き忘れているようで・・・・。
今が一番、そんな風に切り捨てて生きられればいいのでしょうが、
人との出逢いもそうですが、忘れてはいけない風景があるように
思います。

30分以上座っていたでしょうか、いつの間にか薄暮に変わり
公園を往来する人もまばらになりました。
そういえば公園の野外ステージも今のところではなく
北側にあったのを思い出しました、若い頃ロックバンドが
演奏会をしていたのもよみがえり、タイムスリップを楽しみました。

未来に向かって生きるためには過去も振り返る必要があると思います。
戻ることはありませんが、自分が歩いてきた道、熱い心があった時、
その熱い心をもう一度噛みしめて、もしかすると失った疼きをも
改めて噛みしめ、引きずって生きなくてはいけないのかもしれません。


  
Posted by いとう茂 at 15:04Comments(0)

2015年05月30日

あと一月あまり・・・・。

5月がもうすぐ終わり6月になります。
万歩計は66番雲辺寺を過ぎました、ここまで1040キロ余り
歩いてきました、いよいよ香川に入ります、札所の数は
徳島が23、高知が16、愛媛が26で香川は23です。

やはり札所が少ない高知が歩いていて長く思いますが
愛媛も相当長く感じます、徳島と香川は札所の間が
短くメリハリがあり、あっという間にすんでしまうという
印象があります、雲辺寺がすむと観音寺、そこから善通寺まで
実際に歩くと一日余り、坂出までは善通寺から二日ほど、
すぐ高松市に入り80番国分寺から白峯、根来寺、一宮、
高松市外を抜けて屋島、八栗寺、そして志度寺まで半日、
長尾寺がすむといよいよ十数キロで88番大窪寺、結願です。

距離にすると残り150キロくらいでしょうか、目標は6月末ですので
あと一月あまりになりました、単純に割ると1日5キロ強、
議会中は座って審議する時間が長いので、達成できない
確立のほうが高いのですが、やりきるという気持ちを
持ち続けるためにも努力したいと思います。

実際に66番雲辺寺から歩くと、
足の早い人なら5日、普通で1週間というところでしょうか。

頭の中で遍路道をぐるぐる、気分転換にはこれが一番です。
週が明けたら6月通常会議、何をのんきなことを・・・・。
そんな声が聞こえてきそうですが、気分を一新して
臨みたいと思います。

今日と明日は、社会を明るくする運動の協賛事業で
毎年開催されている、更生保護関係者のつどいの
準備で忙殺されそうです、今後のこともありますので、
保護司の住所の入力、関係機関への案内状の送付、
講師の依頼等・・・・・・・・・。

なぜか今年は各方面から役が回ってきます、
お役に立てている、その気持ちを支えに・・・・・。
感謝しなければ。

  
Posted by いとう茂 at 15:36Comments(0)

2015年05月29日

そんなに邪魔にならないのに・・・・。

大体が無頓着なところが多く、ソックスが破れていても
ボタンがほつれていてもあまり気にしないところがあります。
そのくせ、妙なところで細かいことも気になるのですが、
人間は誰もが二面性を持っているのでしょうか。

無頓着と紙一重の部分で気に入ったものはとことん使う、
そんなとことん使っている物の一つに毎日使う箸があります。
3膳を使いまわしていました、一番古いのは20代後半に
もらったか買ったか忘れましたが南天の太い箸です。
その後30代後半に、また南天の箸を買いました。
これで2膳目です。

それから50代の初めに西宮で黒檀の箸を買い
3膳のスタートです、最初の南天も2代目も短くなり
左右のバランスも悪いのですがなれたものが一番使いやすい、
どれも太いのですが最初のが一番太く、手になじんでいました。
先も丸くなり持つところは木地が粗くなっていますが使うのには
何も問題がありませんでした。

ところが・・・・・・ない。
どうやら捨てられてしまったようです、そんなに邪魔になるわけでもないし、
私しか使わないのに・・・・・。
洗ってもらっているときに粗くなった木地が指でも噛んだのか?
理由は分かりませんが、といってもあの外観なら捨てられても
仕方ないかもしれませんが・・・・・。
物を言えないということはかわいそうなものです。

一般的にローテーションがあるとはいえ箸を30年以上使うかと
いう疑問はありますが、使っていた者にとってはそれなりに
愛着と安心感がありました。
過ぎた時間と同じだけこの先時間があるか考えると・・・・。

1膳あればこと足れり。
あきらめるしかありません。

今日は午前中は特別委員会がありました。
夕方からは常任委員会の担当執行部との懇親会ですが、
観察所に用事があるのと2時からは人と会う約束で
結構時間的には厳しいものがあります、できれば散髪にも
行きたかったのですがとても無理で、この土日に行ければ
と思っています。


  
Posted by いとう茂 at 12:41Comments(0)

2015年05月28日

松下幸之助の言葉②

先人の言葉が続きますが、どうぞお読みください。
経営も日常生活も同じことが当てはまるように思います。
特に、人の上に立つ「あなた」にぜひ読ませたい。

今日は一日常任委員会があり各部から説明を受け
その後質疑があります。
活発な議論、それも議員同士の議論を期待しています。
明日は特別委員会、6月1日を前に歯車が勢いよく
回りだした感じです。
昨日の一般質問の読み合わせも無事に終わりました。
国語の時間のようなところもありますが、未来に残る
質問ですので、こうした機会は必要です。



経営といい、商売といっても、これは結局、人間が行なうものである。
人間が行なうものであるからには、
経営や商売は人間をぬきにしては考えられない。
というよりもむしろ、人間を中心において考える、
人間を主体に考える、ということが非常に大切ではないかと思う。


平易なことを間違いなくやり通すのは難しいことである。
難しいことだから根気がいる。それを指導するほうはもっと根気がいる。


逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることだ。
謙虚の心を忘れないことだ。


素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境はうぬぼれを生む。
逆境、順境そのいずれをも問わぬ。
それはそのときのその人に与えられたひとつの運命である。
ただその境涯に素直に生きるがよい。


社内でも、僕が非常に偉いから僕に従ったというよりも、
頼りないオヤジさんだからしっかりやったろうかと、
そういう点があったと思うんです。
ですから、一番大事なことは、ものを言いやすいオヤジ(上司)になることですよ。


結局人間というのは、自覚を持ち、責任を感じれば、
一見ムリと思えるような難しい仕事でもなしとげる力をもっているものだと思う。
もちろん向き不向きということはあろうし、
またそれなりの訓練といったものが必要なことも当然だが、
そういうものが適切なら、あとはその場を与えさえすれば十分な力を発揮するものである。


大事なのは、思い切って仕事を任せ、
自分の責任と権限において自主性をもった仕事ができるようにしていくことである。
人を育てるというのは、結局、経営の分かる人、
どんな小さな仕事でも経営的な感覚をもってできる人を育てることである。


「この仕事は自分一人ではできない。知識も要る。技術も要る。
そういうものはみな部下がもっている。
その人たちが動いてくれて、初めて仕事ができるのだ」というような心持ち、
そしてまた部下の人たちが仕事をしてくれることへの深い感謝と慰労の気持ち、
そういうものが根底になくてはならないと思うのです。


いい人ばかり集めようとし、
ちょっとでも変なのがいるとこれはかなわんと悩むのは虫が良すぎる。
少々のことは飲み込んで大胆に構えて行かんことには人など使えるものではない。
人を使うというときには、どうしても粒よりばかりというわけにはいかんのです。

  
Posted by いとう茂 at 12:22Comments(0)

2015年05月27日

城山三郎の言葉


好きな作家は曽野綾子、中野孝次と城山三郎です。
城山三郎は親父の影響で読み出しました、
高校時代は三島由紀夫のファンでしたが、
どうもなじめないところがあり、ついつい疎遠になってしまいました。

最近は十分な読書の時間が作れませんが、
枕元にはこの三人の作品のどれかが積んであります。
一日数ページ、2年がかりで読むこともしばしばですが、
内容もさることながら、何となく落ち着くのが一番です。

読みたい本が順番に並んでいるので、つい、
新しい本に手が伸び、読みかけの本が20冊くらいになり、
なかなか読み終わらないので、思い切って5冊に絞って
読むことにしましたが、その中に曽野綾子も入っています。
過去の文章に追加した本が多いのですが、
84歳という年齢を考えると仕方がないことでしょう。

今日は城山三郎の言葉を紹介します。

人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかにして深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、
深く生きるためには、ただ受身なだけではなく、
あえて挑むとか、打って出ることも肝要となろう。


一日に一つでも、爽快だ、愉快だと思えることがあれば、
自ら慰めることができるのではないか。
これは私の造語なのだが、「一日一快」でよし、としなければ。


無所属の身である以上、ふだんは話し相手もなければ、
叱られたり、励まされたりすることもないので、
絶えず自分で自分を監視し、自分に檄を飛ばし、自分に声をかける他はない。


人間にはいつも4人の人間が住んでいる。
一人は探検家、一人は芸術家、もう一人は戦士、4番目は判事。
この4人が正常に機能している人が、一番素晴らしいリーダーになれる。

これから会派で一般質問の読み合わせがあります。
今回は1問だけの質問になりました、事前に担当課に行き、
説明を受けたのですが、まだ方向性が定まっていないもの、
現在調査中のものなど、適切な回答をもらうには時期が
早すぎるものが大半で1問になった次第です。

1問故、しっかり・・・・・・。
今日の血圧は139の90でした。


  
Posted by いとう茂 at 13:33Comments(0)