2013年01月31日
説明会
今朝の比良山は稜線がぼやけて空と見分けがつかず
空の中に雪をかぶった頂だけが浮かび、少し、
幻想的な風景でした。
そう言えばこの前ニュースで兵庫県だったと思いますが、
天空の城跡ということで雲の上にある城跡が紹介されていました。
この風景、どこかで見たと思っていたら健さんの「あなたへ」で
田中裕子が歌を歌っていた場所でした。
日本の中でもまだまだ知らない所が多いものです。
午後から議員のお母さんが亡くなられましたのでお参りに行ってきました。
多くの人のお参りで故人の遺徳が偲ばれました。
帰りに瀬田川沿いを走っていると桜の裸木が目に入りました。
いつも思うことですが、桜にせよ欅にせよ枝先を天に向けて
伸びています。
盆栽の世界では箒づくりと言って箒を逆さまに立てたように
作られた欅が珍重されますが、自然界にある
欅の細い枝先はまるで芸術品のように美しいと思います。
裸木を見るにつけ背中を押されている気になります。
昨日は総合計画の第3期実行計画と庁舎整備計画検討委員会の
説明を受けました。
第3期実行計画は12月議会で大筋の賛成があり
それを受けて203の重点事業が出されました。
いくつか質問を行いましたが総合的な説明のために
具体的な回答や方向性は今一つはっきりしませんでしたので、
不明なところは担当課で説明を受けようと思っています。
空の中に雪をかぶった頂だけが浮かび、少し、
幻想的な風景でした。
そう言えばこの前ニュースで兵庫県だったと思いますが、
天空の城跡ということで雲の上にある城跡が紹介されていました。
この風景、どこかで見たと思っていたら健さんの「あなたへ」で
田中裕子が歌を歌っていた場所でした。
日本の中でもまだまだ知らない所が多いものです。
午後から議員のお母さんが亡くなられましたのでお参りに行ってきました。
多くの人のお参りで故人の遺徳が偲ばれました。
帰りに瀬田川沿いを走っていると桜の裸木が目に入りました。
いつも思うことですが、桜にせよ欅にせよ枝先を天に向けて
伸びています。
盆栽の世界では箒づくりと言って箒を逆さまに立てたように
作られた欅が珍重されますが、自然界にある
欅の細い枝先はまるで芸術品のように美しいと思います。
裸木を見るにつけ背中を押されている気になります。
昨日は総合計画の第3期実行計画と庁舎整備計画検討委員会の
説明を受けました。
第3期実行計画は12月議会で大筋の賛成があり
それを受けて203の重点事業が出されました。
いくつか質問を行いましたが総合的な説明のために
具体的な回答や方向性は今一つはっきりしませんでしたので、
不明なところは担当課で説明を受けようと思っています。
Posted by いとう茂 at
15:54
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2013年01月30日
さて、何を・・・・・
パソコンに向かい、さて何を書こうかと考えていて、
頭に浮かんだのは、先日、同室の藤井哲也議員から
「伊藤さん、人生ってなんっすか」と、突然質問されました。
いきなりズバッと直球で難解な質問です。
「そういえば、芭蕉は人生は旅やて言うてたなぁ、
ただ、旅はいつか家に帰るけど人生は行ったきりやし
山頭火は放浪、当てもなくさまよう、個人的にはこっちの方が
しっくりくるけど・・・・」
「旅っすか、放浪っすか、でも人生って短いっすね」
私の回答も回答になっていなかったが、藤井議員の人生が
短いという返事も意外でした。
彼はまだ30代半ばです、私とは二回りも違うのに、その彼の口から
人生は短いという言葉が出るなんて、私はどうすればいい。
悩むこと苦しむこと感謝すること謝罪すること、時々喜ぶこと。
そんなことが人生だと思っていた時期があります。
しかし、それらは日々の中で起きる出来事に対してのことであり、
人生そのものではありません。
ただ、それらの蓄積が人生を形成していることは確かで、
あながち間違っているとも思えないのも事実です。
自分も過去には藤井議員のように人生について
周囲の人と議論したことがあります。
生きた証しを残すこと、そう答える人もいました。
生まれた命は必ずなくなる、人間は死への恐怖を
無意識のうちにどこかに持っている。
だからその恐怖から逃れるために、何かに没頭する。
信仰であったり、仕事であったり、誰かを愛したり、
時には誰かを憎むことさえ死の恐怖から逃れる術になる。
そんな哲学的なというか抽象的なことを考えもしました。
凡人の気づきなど先人がほとんど気づいていて
活字として世に出ています。
ネットで検索すると若山牧水も藤本義一も吉川英治も
人生は旅だと言っています。
その中で藤本義一は己を探す旅だと言い、
芭蕉は行きかう年もまた旅人なりと言っています。
漠然とは理解できますが、人生そのものの意味は
はっきりと見えてきません。
見えないものを見ようとする努力が人生でしょうか。
ぐるぐる回り、何度もふりだしです。
難しく考えるのも簡単に考えるのも人生かも知れません。
超意訳の熟語を思い出しました。
会者定離 愛別離苦 生者必滅 一蓮托生
あえばかなしい わかれのつらさ どうせしぬなら いっしょにいこう
今はノー天気でもいいか。
棺の蓋が閉まる少し前には何か見えてくるでしょう。
たった一つの大切を大切に・・・・・。
頭に浮かんだのは、先日、同室の藤井哲也議員から
「伊藤さん、人生ってなんっすか」と、突然質問されました。
いきなりズバッと直球で難解な質問です。
「そういえば、芭蕉は人生は旅やて言うてたなぁ、
ただ、旅はいつか家に帰るけど人生は行ったきりやし
山頭火は放浪、当てもなくさまよう、個人的にはこっちの方が
しっくりくるけど・・・・」
「旅っすか、放浪っすか、でも人生って短いっすね」
私の回答も回答になっていなかったが、藤井議員の人生が
短いという返事も意外でした。
彼はまだ30代半ばです、私とは二回りも違うのに、その彼の口から
人生は短いという言葉が出るなんて、私はどうすればいい。
悩むこと苦しむこと感謝すること謝罪すること、時々喜ぶこと。
そんなことが人生だと思っていた時期があります。
しかし、それらは日々の中で起きる出来事に対してのことであり、
人生そのものではありません。
ただ、それらの蓄積が人生を形成していることは確かで、
あながち間違っているとも思えないのも事実です。
自分も過去には藤井議員のように人生について
周囲の人と議論したことがあります。
生きた証しを残すこと、そう答える人もいました。
生まれた命は必ずなくなる、人間は死への恐怖を
無意識のうちにどこかに持っている。
だからその恐怖から逃れるために、何かに没頭する。
信仰であったり、仕事であったり、誰かを愛したり、
時には誰かを憎むことさえ死の恐怖から逃れる術になる。
そんな哲学的なというか抽象的なことを考えもしました。
凡人の気づきなど先人がほとんど気づいていて
活字として世に出ています。
ネットで検索すると若山牧水も藤本義一も吉川英治も
人生は旅だと言っています。
その中で藤本義一は己を探す旅だと言い、
芭蕉は行きかう年もまた旅人なりと言っています。
漠然とは理解できますが、人生そのものの意味は
はっきりと見えてきません。
見えないものを見ようとする努力が人生でしょうか。
ぐるぐる回り、何度もふりだしです。
難しく考えるのも簡単に考えるのも人生かも知れません。
超意訳の熟語を思い出しました。
会者定離 愛別離苦 生者必滅 一蓮托生
あえばかなしい わかれのつらさ どうせしぬなら いっしょにいこう
今はノー天気でもいいか。
棺の蓋が閉まる少し前には何か見えてくるでしょう。
たった一つの大切を大切に・・・・・。
Posted by いとう茂 at
12:49
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2013年01月29日
生まれてから・・・・
生まれてから58年間ずっと膳所のまちに住んでいます。
小学校の友達のほとんどは、このまちから出ていきました。
時々、出会うと懐かしさからついつい話し込んでしまいます。
今日、会合のために浜大津に向けて車を走らせていて、
気が付いたのですが、前を走る車が浜大津に行く途中で
4台変わりました。
交差点で右折、左折したわけですが、人生もそうなのかと
考えさせられました。
ある時期同じ道を走っていてもいつかどこかで違う道に入る。
これは前や後ろを走る車だけでなく、自分自身もどこかの交差点で
ウインカーを出さなければなりません。
前の車がブレーキを踏んでいます。
ブレーキを踏むほど混んでいないのに・・・・。
慎重な人なのでしょう。
後ろの車がウインカーを出さずに左折しました。
こちらは横着な人なのか。
大げさに言うなら前後の車とは一期一会の出会いかもしれません。
もちろん対向車もそうです。
前の車が交差点で曲がると、新しい出会いがあります。
次に前を走る車はダンプカーです。
大きなエンジン音を上げて走っています。
信号で止まりました。
青になってもなかなか出足がつきません。
こんな人もいます。
でも、この人は普段騒々しく何事もゆっくりですが、
いっぱい物を運べる力持ちです。
そんなことを考えながら走っていましたが私も右折しなければなりません。
右折しても前には違う車が走っています。
人生と違う所は目的地について用事が済めば家に帰るところでしょう。
人生は目的地というより経由地をいくつも回り、色々な用事を済ませる
その繰り返しの片道のドライブです。
家に帰ることもありますが、それも経由地の一つにすぎません。
58年間同じまちに住んで、自分の走ってきた道が正解だったのか
自問してみても答えなどありませんし正解もないのかも知れません。
ただ、後悔はしたくないと思います、横道に入ってもそれは道草ではなく、
自分の選択で自分に良かれと思い入ったのです。
そんなこんなの繰り返しかもしれません。
でも、時には同じことを繰り返せることに感謝も必要です。
あまり取り留めのないことを考えすぎて事故を起こさぬように気をつけます。
小学校の友達のほとんどは、このまちから出ていきました。
時々、出会うと懐かしさからついつい話し込んでしまいます。
今日、会合のために浜大津に向けて車を走らせていて、
気が付いたのですが、前を走る車が浜大津に行く途中で
4台変わりました。
交差点で右折、左折したわけですが、人生もそうなのかと
考えさせられました。
ある時期同じ道を走っていてもいつかどこかで違う道に入る。
これは前や後ろを走る車だけでなく、自分自身もどこかの交差点で
ウインカーを出さなければなりません。
前の車がブレーキを踏んでいます。
ブレーキを踏むほど混んでいないのに・・・・。
慎重な人なのでしょう。
後ろの車がウインカーを出さずに左折しました。
こちらは横着な人なのか。
大げさに言うなら前後の車とは一期一会の出会いかもしれません。
もちろん対向車もそうです。
前の車が交差点で曲がると、新しい出会いがあります。
次に前を走る車はダンプカーです。
大きなエンジン音を上げて走っています。
信号で止まりました。
青になってもなかなか出足がつきません。
こんな人もいます。
でも、この人は普段騒々しく何事もゆっくりですが、
いっぱい物を運べる力持ちです。
そんなことを考えながら走っていましたが私も右折しなければなりません。
右折しても前には違う車が走っています。
人生と違う所は目的地について用事が済めば家に帰るところでしょう。
人生は目的地というより経由地をいくつも回り、色々な用事を済ませる
その繰り返しの片道のドライブです。
家に帰ることもありますが、それも経由地の一つにすぎません。
58年間同じまちに住んで、自分の走ってきた道が正解だったのか
自問してみても答えなどありませんし正解もないのかも知れません。
ただ、後悔はしたくないと思います、横道に入ってもそれは道草ではなく、
自分の選択で自分に良かれと思い入ったのです。
そんなこんなの繰り返しかもしれません。
でも、時には同じことを繰り返せることに感謝も必要です。
あまり取り留めのないことを考えすぎて事故を起こさぬように気をつけます。
Posted by いとう茂 at
14:56
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2013年01月28日
1月が行く
1月も今週で終わります。
何もしなかったわけではないのですが、振り返ると、
やっぱり早かった気がします。
今週は議会関係が2回その他で2回の会議があります。
その他に学区対抗の駅伝も入っています。
月が替わると19日からは、いよいよ2月議会。
一般質問に加えて交渉会派からは代表質問もあります。
質問の柱がいくつもあり選択に頭を痛めているところですが、
あと、新年度予算が出てきますのでそれの検討もして
追加の質問もあるかもしれません。
昨日は午後から月に一度の読書会でした。
あらかじめ決められた冊子を読んでその感想を語り合うもので、
人によって受け止め方が様々で、新しい気付きがあります。
そう言えば、今日は大津でも雪がちらついています。
雪を見てうれしいと思う人もあれば、寒い、車の運転大丈夫かと
心配する人もあるでしょう。
子どもの頃は朝起きて雪が積もっているとうれしいものでした。
年齢や立場が変わると同じ事象でも思いが変わるものです。
今でも少しうれしい気持ちはありますが、億劫になったのか
寒いという気持ちが勝るようになりました。
毎日、各会派に新聞のコピーが配られます。
今日のコピーの中で自然に関するものは雄琴地区のヨシ刈りと
坂本の盆梅展のニュースでした。
膳所でもヨシ刈りが2月に入ると行われ3月の琵琶湖開きの日に
琵琶湖の環境浄化と水難事故がないようにとの思いを込めて
火まつりが行われます。
例年寒い時期ですが多くの参加者があり、カメラを持った人も大勢訪れます。
盆梅と言えば長浜周辺が有名ですが、冬の観光客の減少する時期に
各地でも開催されるようになっています。
梅には桜にない味わいを感じます。
1輪の存在感と言いますか、ほのかな香りを漂わせ、
それでいて凛とした命の力強さを感じます。
いにしえの人たちはこの花が咲くと春に思いをはせて、
今日は一輪、明日は三輪と春を待ちわびたのでしょうか。
梅一輪 一輪ほどの 暖かさ
この梅が満開になるころには無事議会が開会されることを願います。
コメントをいただきありがとうございました。
今後の活動の参考にさせていただきます。
今後ともよろしくお願いします。
何もしなかったわけではないのですが、振り返ると、
やっぱり早かった気がします。
今週は議会関係が2回その他で2回の会議があります。
その他に学区対抗の駅伝も入っています。
月が替わると19日からは、いよいよ2月議会。
一般質問に加えて交渉会派からは代表質問もあります。
質問の柱がいくつもあり選択に頭を痛めているところですが、
あと、新年度予算が出てきますのでそれの検討もして
追加の質問もあるかもしれません。
昨日は午後から月に一度の読書会でした。
あらかじめ決められた冊子を読んでその感想を語り合うもので、
人によって受け止め方が様々で、新しい気付きがあります。
そう言えば、今日は大津でも雪がちらついています。
雪を見てうれしいと思う人もあれば、寒い、車の運転大丈夫かと
心配する人もあるでしょう。
子どもの頃は朝起きて雪が積もっているとうれしいものでした。
年齢や立場が変わると同じ事象でも思いが変わるものです。
今でも少しうれしい気持ちはありますが、億劫になったのか
寒いという気持ちが勝るようになりました。
毎日、各会派に新聞のコピーが配られます。
今日のコピーの中で自然に関するものは雄琴地区のヨシ刈りと
坂本の盆梅展のニュースでした。
膳所でもヨシ刈りが2月に入ると行われ3月の琵琶湖開きの日に
琵琶湖の環境浄化と水難事故がないようにとの思いを込めて
火まつりが行われます。
例年寒い時期ですが多くの参加者があり、カメラを持った人も大勢訪れます。
盆梅と言えば長浜周辺が有名ですが、冬の観光客の減少する時期に
各地でも開催されるようになっています。
梅には桜にない味わいを感じます。
1輪の存在感と言いますか、ほのかな香りを漂わせ、
それでいて凛とした命の力強さを感じます。
いにしえの人たちはこの花が咲くと春に思いをはせて、
今日は一輪、明日は三輪と春を待ちわびたのでしょうか。
梅一輪 一輪ほどの 暖かさ
この梅が満開になるころには無事議会が開会されることを願います。
コメントをいただきありがとうございました。
今後の活動の参考にさせていただきます。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by いとう茂 at
12:14
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2013年01月27日
生活保護に思う
自民党政権に変わり生活保護費の引き下げが検討されていますが、
ここにきて、ニュースでは引き上げの検討も示唆されています。
これはデフレからインフレへと景気対策がうまくいった時の措置ですが、
基本的には下げる方向での検討ではないかと思います。
低所得者の収入より生活保護費の方が多いためとされています。
額に汗して働く者より働かずにいる者の方がたくさん国から
お金をもらうのはよくない。
そんな発想だと思います。
不正受給が発覚する中、理屈は分からなくもありませんが、
引き下げの議論の中で、生活保護費で生活する人たちは、
どういう暮らしを続けているのかそのあたりの議論が見えてきません。
生活保護は、最低限の文化的な暮らしができる費用と位置づけされています。
生活保護費でぜいたくな暮らしをしているのなら引き下げも理解できますが・・・・・。
それに、現在生活保護費並みの低所得の子育て世帯が受けている
就学補助金や低所得世帯で免除になっている市民税の議論も見えません。
生活保護費の引き下げで低所得世帯の就学補助金が打ち切りになったり、
新たに市民税の課税対象になる世帯が確実に出てきます。
そうなると子育て世帯では、例えば修学旅行の積立金の支出に
加えて市民税の課税と支出が大幅に増えることも予想されます。
低所得世帯は生活保護費が上がろうが下がろうが
自分たちの懐に入るお金に変化がありません。
それよりも、最低賃金を上げて、額に汗する人の手元に
生活保護費以上のお金が渡るようにすべきではないでしょうか。
そう言うと企業の経営や競争力に影響が出る。
そんな答えが返ってきます。
そのことも一定理解します。
企業あっての賃金。
正規採用より非正規採用の方が人件費や福利厚生面でも
支出が少ないのが当然で、大津市でも臨時職員・嘱託職員が
多くいます。
議会の答弁ではひとり親世帯の就労形態で非正規雇用から正規雇用に
転換できるように努力します的な答弁なのに・・・・・。
それでもいいから就職するという選択肢ではなく、
それしかないから就職するという選択肢の方もいるでしょう。
年功序列、終身雇用より実力主義の台頭が今の日本を
作ったとすれば、ある面では国民の選択でもあります。
大津市の生活保護の実態は平成20年度までは大津市全世帯の8%台で推移し、
21年度は10,07%、22年度11,18%、23年度11,27%と増加し
被保護世帯は20年度2,101,21年度2,377、22年度2,647,23年度2,706
と右肩上がりになっています。
高齢者、障害・傷病、母子とその他の世帯は平成19年度と
23年度を比較すると高齢者世帯822が1,028、障害・傷病764が1,077
母子199が258ですが、その他は175が330に増加しています。
このその他はいわゆるニートやひきこもりと呼ばれる人が大半で、
労働すべき人とも言えます。
今年度大津市では子ども若者プランの中で、こうした
ニートやひきこもりの就労支援を積極的に行うことを盛り込んでいます。
しかし、どこにいるかほとんど実態が不明なニートや引きこもり、
詰まる所、本人たちが働こうという気にならないと、せっかくのプランも
絵に描いた餅でしかありません。
甘えるな!と
頭ごなしに怒鳴りつける気はありませんが、一度しかない人生。
自分だけの誰にも代われない人生。
やり直す時に早い遅いはない。
棺桶の蓋が閉まるときに後悔しない生き方をしてほしい。
ただ、そのことを願うだけです。
啐啄という言葉があります。
啐とは卵の中にいる雛が殻を破ろうと中から殻をできたばかりのくちばしで
叩く様で、外に出る卒業に似ています。
啄は石川啄木、啄木鳥の啄で、外から親鳥が殻を突き少しだけ殻を割って
雛を殻から出そうとする様です。
親鳥は大きな穴をあけないと言います。
最終は雛の生命力しかありません。
そして、お互いが殻を破ろうとする時がずれると、雛は
死んでしまとも言われます、まさに阿吽の呼吸が必要です。
同様に行政がどれだけ道筋をつけても最後は本人次第です。
時間も、費用も、施策もすべて限界があります。
恐る恐るでも一歩を踏み出す若年世代の受給者に期待します。
都市部ではニート・ひきこもりも多く生活保護費全体を押し上げているのも事実です。
生活保護費の引き下げの前にこうしたニート・ひきこもりの就労を考えるべきだと思います。
貰い過ぎ。
そうした世論があるのは確かですが、多くの善良な生活保護受給者が
どんな暮らしぶりか知ることは同じ国の住民として必要だと思います。
特に、高齢者、母子、障害・傷病。
ここにきて、ニュースでは引き上げの検討も示唆されています。
これはデフレからインフレへと景気対策がうまくいった時の措置ですが、
基本的には下げる方向での検討ではないかと思います。
低所得者の収入より生活保護費の方が多いためとされています。
額に汗して働く者より働かずにいる者の方がたくさん国から
お金をもらうのはよくない。
そんな発想だと思います。
不正受給が発覚する中、理屈は分からなくもありませんが、
引き下げの議論の中で、生活保護費で生活する人たちは、
どういう暮らしを続けているのかそのあたりの議論が見えてきません。
生活保護は、最低限の文化的な暮らしができる費用と位置づけされています。
生活保護費でぜいたくな暮らしをしているのなら引き下げも理解できますが・・・・・。
それに、現在生活保護費並みの低所得の子育て世帯が受けている
就学補助金や低所得世帯で免除になっている市民税の議論も見えません。
生活保護費の引き下げで低所得世帯の就学補助金が打ち切りになったり、
新たに市民税の課税対象になる世帯が確実に出てきます。
そうなると子育て世帯では、例えば修学旅行の積立金の支出に
加えて市民税の課税と支出が大幅に増えることも予想されます。
低所得世帯は生活保護費が上がろうが下がろうが
自分たちの懐に入るお金に変化がありません。
それよりも、最低賃金を上げて、額に汗する人の手元に
生活保護費以上のお金が渡るようにすべきではないでしょうか。
そう言うと企業の経営や競争力に影響が出る。
そんな答えが返ってきます。
そのことも一定理解します。
企業あっての賃金。
正規採用より非正規採用の方が人件費や福利厚生面でも
支出が少ないのが当然で、大津市でも臨時職員・嘱託職員が
多くいます。
議会の答弁ではひとり親世帯の就労形態で非正規雇用から正規雇用に
転換できるように努力します的な答弁なのに・・・・・。
それでもいいから就職するという選択肢ではなく、
それしかないから就職するという選択肢の方もいるでしょう。
年功序列、終身雇用より実力主義の台頭が今の日本を
作ったとすれば、ある面では国民の選択でもあります。
大津市の生活保護の実態は平成20年度までは大津市全世帯の8%台で推移し、
21年度は10,07%、22年度11,18%、23年度11,27%と増加し
被保護世帯は20年度2,101,21年度2,377、22年度2,647,23年度2,706
と右肩上がりになっています。
高齢者、障害・傷病、母子とその他の世帯は平成19年度と
23年度を比較すると高齢者世帯822が1,028、障害・傷病764が1,077
母子199が258ですが、その他は175が330に増加しています。
このその他はいわゆるニートやひきこもりと呼ばれる人が大半で、
労働すべき人とも言えます。
今年度大津市では子ども若者プランの中で、こうした
ニートやひきこもりの就労支援を積極的に行うことを盛り込んでいます。
しかし、どこにいるかほとんど実態が不明なニートや引きこもり、
詰まる所、本人たちが働こうという気にならないと、せっかくのプランも
絵に描いた餅でしかありません。
甘えるな!と
頭ごなしに怒鳴りつける気はありませんが、一度しかない人生。
自分だけの誰にも代われない人生。
やり直す時に早い遅いはない。
棺桶の蓋が閉まるときに後悔しない生き方をしてほしい。
ただ、そのことを願うだけです。
啐啄という言葉があります。
啐とは卵の中にいる雛が殻を破ろうと中から殻をできたばかりのくちばしで
叩く様で、外に出る卒業に似ています。
啄は石川啄木、啄木鳥の啄で、外から親鳥が殻を突き少しだけ殻を割って
雛を殻から出そうとする様です。
親鳥は大きな穴をあけないと言います。
最終は雛の生命力しかありません。
そして、お互いが殻を破ろうとする時がずれると、雛は
死んでしまとも言われます、まさに阿吽の呼吸が必要です。
同様に行政がどれだけ道筋をつけても最後は本人次第です。
時間も、費用も、施策もすべて限界があります。
恐る恐るでも一歩を踏み出す若年世代の受給者に期待します。
都市部ではニート・ひきこもりも多く生活保護費全体を押し上げているのも事実です。
生活保護費の引き下げの前にこうしたニート・ひきこもりの就労を考えるべきだと思います。
貰い過ぎ。
そうした世論があるのは確かですが、多くの善良な生活保護受給者が
どんな暮らしぶりか知ることは同じ国の住民として必要だと思います。
特に、高齢者、母子、障害・傷病。