2014年08月20日
英霊の言乃葉(第5集より)
英霊の言乃葉には滋賀県出身の戦没者の遺書も掲載されています。
あの戦争がなかったら、失われた命がなかったら、
亡くなられた方の子どもが生まれていたはずです、
世の中の歯車が違う形で動いていたかもしれません。
いや、きっと違う形の人間関係があったはずです。
そう考えると人と人との巡り合いの不思議、
縁の不思議さを感じます。
「遺書」 小澤七兵衛 海軍中尉 滋賀県出身 25歳
今日迄長らく慈しみ育んで下さいました御両親様の御恩の
万分の一にもお応えできなかったことを残念に思います。
私の現在の心境は唯幸福の二文字によって尽きます。
立派なご両親様を持ち、前途洋々たる兄弟の幾人を持ち、
立派な先生親戚知人を有することは此の上もなき喜びです。
悠久の大義に生く。これが私の信念です。
護国の鬼となりましても最後まで幸福な一生を送り得て、
にっこり笑って死んでいったと思し召して下さい。
墓場の蔭から国家の隆盛と御両親様の御多幸をお祈りします。
靖国神社でお目にかかりましょう。
平井先生始め諸先生へよろしくお伝え下さい。
葬式は極めて簡単にして、幾何でもよろしいから商大経営研究室
並びに篠原国民学校へ寄付下されば幸甚の至りです。
昭和十八年 敏男(幼名)
御両親様
「遺書」 木本幹治 陸軍軍曹 滋賀県出身 24歳
先立ツ不孝ヲ御ユルシ下サイ。
天皇陛下ノ御為、国家ノ為、私ハ喜ンデ往キマス。
護国ノ花ト散ッテコソ本懐デス。
広イ日本国中ニ数多イ遺族ノ方々ニ思イヲ伸バシテ下サイ。
私程ノ倖者ハナイト思イマス。
有難イ両親様ノ愛撫ヲ独リデ受ケテ、
何一ツ不自由ナク成人サセテ頂キマシタ。
親孝行ノ出来ナカッタ事ノミ残念デス。
ドナタカ良イ方ヲ私ノカワリニ家ヲ継イデ頂イテ下サイ。
僅ナ貯金ハ西桜谷校ト皆野校ヘ適当ニ分ケテ、
何カ有益ナ事ニ使ッテ頂イテ下サイ。
女性トノ関係ハ何処ニモアリマセン。
マダ子供デシタ。
体ヲ大事ニシテ長生キシテ下サイ。
私ハ日本一世界一ノ倖者デシタ。
有難ウ御座イマシタ。
サヨウナラ 幹治
昭和十七年三月二十九日
先の小澤さんの遺書は昭和18年8月に書かれたものですが、
亡くなられたのは19年8月18日です、二番目の木本さんは
昭和17年3月29日に残され、19年11月6日に戦死されています。
どちらも死を決意されてからかなりの時間が経過しています。
心の揺らぎはなかったのでしょうか。
それとも日々の戦闘でそんなことを考えるゆとりもなかったのか、
知る術はありませんが、張りつめた気持ちを持ち続けることは
並大抵ではなかったと思います。
生きる意味や死ぬ恐怖、そうしたことに触れることがタブーだったのか、
それも教育のなせる業なのか、教育の大切さと怖さを垣間見る思いです。
あの戦争がなかったら、失われた命がなかったら、
亡くなられた方の子どもが生まれていたはずです、
世の中の歯車が違う形で動いていたかもしれません。
いや、きっと違う形の人間関係があったはずです。
そう考えると人と人との巡り合いの不思議、
縁の不思議さを感じます。
「遺書」 小澤七兵衛 海軍中尉 滋賀県出身 25歳
今日迄長らく慈しみ育んで下さいました御両親様の御恩の
万分の一にもお応えできなかったことを残念に思います。
私の現在の心境は唯幸福の二文字によって尽きます。
立派なご両親様を持ち、前途洋々たる兄弟の幾人を持ち、
立派な先生親戚知人を有することは此の上もなき喜びです。
悠久の大義に生く。これが私の信念です。
護国の鬼となりましても最後まで幸福な一生を送り得て、
にっこり笑って死んでいったと思し召して下さい。
墓場の蔭から国家の隆盛と御両親様の御多幸をお祈りします。
靖国神社でお目にかかりましょう。
平井先生始め諸先生へよろしくお伝え下さい。
葬式は極めて簡単にして、幾何でもよろしいから商大経営研究室
並びに篠原国民学校へ寄付下されば幸甚の至りです。
昭和十八年 敏男(幼名)
御両親様
「遺書」 木本幹治 陸軍軍曹 滋賀県出身 24歳
先立ツ不孝ヲ御ユルシ下サイ。
天皇陛下ノ御為、国家ノ為、私ハ喜ンデ往キマス。
護国ノ花ト散ッテコソ本懐デス。
広イ日本国中ニ数多イ遺族ノ方々ニ思イヲ伸バシテ下サイ。
私程ノ倖者ハナイト思イマス。
有難イ両親様ノ愛撫ヲ独リデ受ケテ、
何一ツ不自由ナク成人サセテ頂キマシタ。
親孝行ノ出来ナカッタ事ノミ残念デス。
ドナタカ良イ方ヲ私ノカワリニ家ヲ継イデ頂イテ下サイ。
僅ナ貯金ハ西桜谷校ト皆野校ヘ適当ニ分ケテ、
何カ有益ナ事ニ使ッテ頂イテ下サイ。
女性トノ関係ハ何処ニモアリマセン。
マダ子供デシタ。
体ヲ大事ニシテ長生キシテ下サイ。
私ハ日本一世界一ノ倖者デシタ。
有難ウ御座イマシタ。
サヨウナラ 幹治
昭和十七年三月二十九日
先の小澤さんの遺書は昭和18年8月に書かれたものですが、
亡くなられたのは19年8月18日です、二番目の木本さんは
昭和17年3月29日に残され、19年11月6日に戦死されています。
どちらも死を決意されてからかなりの時間が経過しています。
心の揺らぎはなかったのでしょうか。
それとも日々の戦闘でそんなことを考えるゆとりもなかったのか、
知る術はありませんが、張りつめた気持ちを持ち続けることは
並大抵ではなかったと思います。
生きる意味や死ぬ恐怖、そうしたことに触れることがタブーだったのか、
それも教育のなせる業なのか、教育の大切さと怖さを垣間見る思いです。
Posted by いとう茂 at 12:15│Comments(0)