2015年01月23日
だんだん似てくる父はもういない
親父が亡くなって3回忌の前に書いたものです。
20年と言う歳月は・・・・・・。
徐々に止まったままの、親父の年に近づいていきます。
私はこんなに元気なのに、親父はいつも何かの病魔と
闘っていました。
親父が60歳の時は私は32・3歳。
胃がんの手術をしたころだったでしょうか。
滋賀医大に入院していました、おふくろが行きはJRとバスを乗り継いで、
帰りは私が時間を見計らって迎えに行くと言う毎日でした。
親父のポマードもいつの間にか私が使い切りました、
使い切って新しい物を買っていないということは、私の髪の毛も
徐々に減り、細くなったということです。
死んだ人のことをいくら考えても二度と戻ることはありません、
残された者が精一杯生きることが供養だと思い今日まできました。
オットセーだったかアザラシだったか忘れましたが、生まれて1週間で
親は子どもを捨ててどこかに行ってしまいます、自然界で生き残る
知恵なのかもしれませんし、繁殖目的で生まれてきた犬や猫は
親の顔が見えるか見えないかの時期に親と離されてどこかへ行きます。
水槽で増やしたメダカも増えすぎると、どこかの家に貰ってもらう。
親と長く一緒に暮らせるのは自然界では人間くらいかもしれません。
これは人間が一人前になるまで時間がかかるからだと聞きましたが、
そう思って自分を納得させるしか・・・・・。
「父のポマード」
父は、桜の花の咲く頃に、母と私と弟に看取られて静かに本当に静かに
息を引き取った。
その顔は、この25年余の間、多くの病と闘い続け、
勝つことも敗れることもなく、父の成厳を保ったまま毅然と黄泉の国へと
旅立ったのだと信じさせるのに充分な穏やかな顔だった。
私が小さい時から仕事や地城の役に追われ、
決してマイホームバパとはいえない父だった。
それでも、正月になると伏見稲荷か動物園 に連れてくれ、
その後、高島屋か大丸で玩具を買ってくれた。
昼は、大食堂でお子様ランチか 海老フライを食べさせてもらった。
そして、締めくくりに出てくるアイスクリームソーダは格別の味だった。
食事の次は屋上の遊園地だ。
10円入れて見る望遠鏡からの景色は、私と弟にしばしの間、
鳥の視野を与えてくれたし、グルグル回るワイヤー付きの飛行機は、
にわかパイロットにしてくれた。
ディズニーランドやハウステンボスより夢があったように思う。
帰りは京極から三条駅まで歩いて帰るのだが、
京極に入った所に漢方薬の店があり陳列ケースでマムシが
トグロを巻いていた。
左右に土産物の店が並ぶ京極を出る頃になると、
疲れてどうやらグズついていたようだ。
三条からの京阪電車の中では、ウトウトするのが例年のならわしになっていたが、
いつも私を現実に引き戻す匂いがあった。
それが、父のポマードだと気付いたのは随分してからだった。
「おとうちゃん、何かくさい」口には出さなかったが、
普段からそう思っていた。
そういえば、動物園で撮った写真の父の髪はきれいに整っていた。
おそらくドライヤーなんてなかっただろう、髪にポマードを塗込み手で押さえ
櫛で分け目をつくりまた押さえる。
その繰り返しの成果があの写真だったのだ。
後年、父の髪も薄く柔らかくなったので、あまりポマードも減らなくなった。
父母のどちらに似たのかは知らないが、剛毛の私は寝グセがつきやすい。
頭を洗って乾かさずに寝てしまった翌日には必ず引力に逆らって髪が上を向いている。
いくらリキッドで湿らせても、ドライヤーをかけても直らない。
蒸しタオルで押さえればいいのかも知れないが、無精者でそんな気にもならない。
ある日、逆立ちしている髪をおさえていて、ふと、ちっとも減らない
ポマードのことを思い出し、手に延ばして髪につけドライヤーで押さえたら
うまくいった。
ムースやジェルもあるけれど寝グセはポマードに限る。
そう思わせるだけの説得力のあるポマード、
父が今もいるような気にさせてくれる。
匂いだけは受け入れがたいと思いつつ、
ついつい手が伸びる。
子は親の背中を見て育つというが何となく理解できそうな気がする。 97, 1月
今日は午前中は政策検討会議でした、いじめの防止条例の検討です。
2月通常会議において改正案の上程を目指しています。
結構、議論があり座長はまとめるのに大変だと思います。
Posted by いとう茂 at 12:31│Comments(0)