2015年03月03日
これもご縁か、それとも・・・・・。
一昨日のブログで、ヘイズこと鈴木恒次君のことを書きました。
鈴木君とは結構仲良しで、ノッポとチビのコンビでした。
身長は鈴木君は165以上あったと思いますが、私は
140そこそこ、6年生の時の話です。
それでもクラスでは真ん中くらいでしたが中学校に行っても
なかなか背が伸びず中2の時はクラスで一番前でした。
中学校に入ると鈴木君も私も陸上部に入りました。
ここから陸上とのご縁が始まります。
膳所小学校から5・6名、晴嵐小学校からも同じくらい
陸上部に入りましたが一番チビでした。
最初のウォーミングアップについていくのが精いっぱい、
周囲には、とても続かないと思われていた私がこの先6年間、
陸上漬けの日々を送るのですから人生は不思議です。
鈴木君は途中で転校してしまいました、他にも何人か陸上部を
去り、3年生まで残ったのは途中入部を入れて男子4名でした。
短距離では3番目、長距離でも2番目と目立たない人間でしたが
2年の途中で棒高跳びに転向し、大津市の大会ですが
中学校最後の大会で優勝するのですから、またまた人生は
摩訶不思議です。
高校に入って陸上を続けたのは二人、棒高跳びという種目が
性にあったのか、1年の秋の新人戦では2年生に交じって
滋賀県で5位に入賞します。
1年生だけなら3位の位置にいました。
身長は高1で163くらいだったと思います。
180を超える人もいる中、やはりチビに変わりはありません。
それでも秋の新人戦5位に気をよくして冬季練習は懸命にしました。
1年生の時には30キロのバーベルが上がらず胸の上において
もがいていましたが、2年の春にはそんなこともなくなり、
もう少し重いバーベルを上げていた記憶があります。
高2の時でも170には届きません、このころの望みは身長が欲しい。
ただそれだけでした、ポールを突っ込み上昇するときは振り子の原理で
身長がある方がスピードが付き高い握りでもポールが立ちます。
身長が低いせいではありませんが、高2の春は記録なし、
気負い過ぎたのでしょう、ガックリして頭を丸めました。
中学校で一緒だった友達は円盤投げに転向していました。
それでも、記録が伸びずいつの間にかクラブをやめたようで
中学から陸上を続けているのはチビの私だけになりました。
私より足の速い友達は大勢いましたが世の中皮肉なものです。
春の大会の次は夏の県体、1・2年の学年別近畿ジュニア予選、
秋の新人戦、近畿ジュニアは3位以内に入ると近畿大会に出場できます。
上位2名は強い選手でしたが、私の下の選手とは記録も離れていましたので、
予想通り3位、初めての県外遠征ですが、滋賀県で優勝できない選手が
近畿で活躍できるわけもなく・・・・・惨敗。
下の選手はどうでもいい、上の二人が目標に変わったのはこのころです。
秋の新人戦は2位以内なら滋賀、奈良、和歌山の3県大会に出られます。
結果は、やはり3位。
またガックリですが残る大会は春の大会、これはインターハイの予選も兼ねていますから
6位以内は近畿大会へ、そこで6位以内はインターハイに出られます。
力とスピードをつけないと、これがこのころの課題でした。
冬季練習は短い距離のダッシュとウエートトレーニング。
おかげで50Mは5秒半ばまで記録が伸び、ウエートもベンチプレスは70キロ、
スクワットも70キロ、もちろん1回ではありません10回×5セット。
マックスはスクワット、ベンチプレスは120キロ、プレス90キロとウエイトリフティングの
選手のような練習をこなせるようになりました。
いよいよ春のシーズン、ちょうど今頃の季節です、ポールを硬めに替えて握りも高くして
練習を始めました、10回に5回くらいまでポールの反発を感じて体がうまく浮くように
なりましたが、まだまだ自信がありません、仕方なく春の大会は以前の
軟らかいポールにしました、それでも記録は30センチ伸びましたが、
結果は3位、あれだけ練習したのに・・・・・。
まだ、近畿大会までは2か月以上あります、過去の入賞ラインまでは、
あと少し、硬いポールが使いこなせれば十分届きます。
順調に練習が進みましたが、好事魔多し。
6月に入って自在にポールが操れるようになった頃、気の緩みでしょう、
体が浮いた瞬間にバランスを崩し左足一本で地面に着地、
「ギクッ」これで万事休す。
関節の柔軟さには自信があり、捻挫はしにくい体質でしたが、この時は
靭帯が伸びて足首がブラブラになりました。
アーア、終わった、自分勝手な夢でしたが潰えました、これも現実です。
もちろん近畿大会では助走もままならず、記録なし。
3年間が終わった、不本意でも自分の気の緩みが招いた結果です。
誰を恨んでも始まりません、6月、7月はリハビリを兼ねたジョギングだけ。
残りの大会と言えば県体、国体予選の二つですが、この状態では
参加するだけ、それでも県体には出場しました。
もちろん軟らかいポールで、春の大会の1位から6位までが出ています。
当日は大雨で夏場なのに寒かったのを覚えています。
練習はほとんどできていません、そんな中で、雨で握りが滑り、
他の選手が消えていきます、残ったのはずっと優勝している選手と
私だけ、滋賀県で初めての2位以内が確定しました。
試技の順番は私が後です、お互い2回バーを落とし後がありません、
彼が3回目をパスし、私の順番です、これを落として、彼が次の高さを
失敗しても試技数の関係で私は2位でした。
とにかく跳ばないと勝てません、何も考えずに跳んだ気がします。
普段なら心配ない高さですが雨の影響でユニフォームはドボドボ、
握りも濡れて滑ります。
こんなこともあるのです、3回目にクリアーできました。
高さが上がります、彼に残されたチャンスは1回、私は3回ありますが、
冷えて足首がままならず、跳べる自信はありませんでした。
後輩に傘を掛けてもらい二人で「落とせ」「落とせ」、
人の不幸を願うなんて・・・・・。
結果、彼は握りが滑り失敗、この瞬間、私の優勝が決まりました。
失敗した彼が私に傘を掛けかけ「伊藤君に初めて負けたね、
おめでとう」と言ってくれたのを今でも覚えています。
中学校も高校も最後の大会で優勝、これも、チビがあきらめずに
続けてきたご褒美かも知れません。
ちなみに高3の時は172まで身長が伸び、その後174,7まで
伸びましたが175を超えることはありません、足るを知る・・・・です。
陸上部に入ったころは一番チビで足も遅い人間、そんな人間だけが
陸上を続け、滋賀県の大会で優勝する。
これも何かのご縁でしょうか、それとも、途中でやめていった友達が
願いを託したのでしょうか。
鈴木君とは結構仲良しで、ノッポとチビのコンビでした。
身長は鈴木君は165以上あったと思いますが、私は
140そこそこ、6年生の時の話です。
それでもクラスでは真ん中くらいでしたが中学校に行っても
なかなか背が伸びず中2の時はクラスで一番前でした。
中学校に入ると鈴木君も私も陸上部に入りました。
ここから陸上とのご縁が始まります。
膳所小学校から5・6名、晴嵐小学校からも同じくらい
陸上部に入りましたが一番チビでした。
最初のウォーミングアップについていくのが精いっぱい、
周囲には、とても続かないと思われていた私がこの先6年間、
陸上漬けの日々を送るのですから人生は不思議です。
鈴木君は途中で転校してしまいました、他にも何人か陸上部を
去り、3年生まで残ったのは途中入部を入れて男子4名でした。
短距離では3番目、長距離でも2番目と目立たない人間でしたが
2年の途中で棒高跳びに転向し、大津市の大会ですが
中学校最後の大会で優勝するのですから、またまた人生は
摩訶不思議です。
高校に入って陸上を続けたのは二人、棒高跳びという種目が
性にあったのか、1年の秋の新人戦では2年生に交じって
滋賀県で5位に入賞します。
1年生だけなら3位の位置にいました。
身長は高1で163くらいだったと思います。
180を超える人もいる中、やはりチビに変わりはありません。
それでも秋の新人戦5位に気をよくして冬季練習は懸命にしました。
1年生の時には30キロのバーベルが上がらず胸の上において
もがいていましたが、2年の春にはそんなこともなくなり、
もう少し重いバーベルを上げていた記憶があります。
高2の時でも170には届きません、このころの望みは身長が欲しい。
ただそれだけでした、ポールを突っ込み上昇するときは振り子の原理で
身長がある方がスピードが付き高い握りでもポールが立ちます。
身長が低いせいではありませんが、高2の春は記録なし、
気負い過ぎたのでしょう、ガックリして頭を丸めました。
中学校で一緒だった友達は円盤投げに転向していました。
それでも、記録が伸びずいつの間にかクラブをやめたようで
中学から陸上を続けているのはチビの私だけになりました。
私より足の速い友達は大勢いましたが世の中皮肉なものです。
春の大会の次は夏の県体、1・2年の学年別近畿ジュニア予選、
秋の新人戦、近畿ジュニアは3位以内に入ると近畿大会に出場できます。
上位2名は強い選手でしたが、私の下の選手とは記録も離れていましたので、
予想通り3位、初めての県外遠征ですが、滋賀県で優勝できない選手が
近畿で活躍できるわけもなく・・・・・惨敗。
下の選手はどうでもいい、上の二人が目標に変わったのはこのころです。
秋の新人戦は2位以内なら滋賀、奈良、和歌山の3県大会に出られます。
結果は、やはり3位。
またガックリですが残る大会は春の大会、これはインターハイの予選も兼ねていますから
6位以内は近畿大会へ、そこで6位以内はインターハイに出られます。
力とスピードをつけないと、これがこのころの課題でした。
冬季練習は短い距離のダッシュとウエートトレーニング。
おかげで50Mは5秒半ばまで記録が伸び、ウエートもベンチプレスは70キロ、
スクワットも70キロ、もちろん1回ではありません10回×5セット。
マックスはスクワット、ベンチプレスは120キロ、プレス90キロとウエイトリフティングの
選手のような練習をこなせるようになりました。
いよいよ春のシーズン、ちょうど今頃の季節です、ポールを硬めに替えて握りも高くして
練習を始めました、10回に5回くらいまでポールの反発を感じて体がうまく浮くように
なりましたが、まだまだ自信がありません、仕方なく春の大会は以前の
軟らかいポールにしました、それでも記録は30センチ伸びましたが、
結果は3位、あれだけ練習したのに・・・・・。
まだ、近畿大会までは2か月以上あります、過去の入賞ラインまでは、
あと少し、硬いポールが使いこなせれば十分届きます。
順調に練習が進みましたが、好事魔多し。
6月に入って自在にポールが操れるようになった頃、気の緩みでしょう、
体が浮いた瞬間にバランスを崩し左足一本で地面に着地、
「ギクッ」これで万事休す。
関節の柔軟さには自信があり、捻挫はしにくい体質でしたが、この時は
靭帯が伸びて足首がブラブラになりました。
アーア、終わった、自分勝手な夢でしたが潰えました、これも現実です。
もちろん近畿大会では助走もままならず、記録なし。
3年間が終わった、不本意でも自分の気の緩みが招いた結果です。
誰を恨んでも始まりません、6月、7月はリハビリを兼ねたジョギングだけ。
残りの大会と言えば県体、国体予選の二つですが、この状態では
参加するだけ、それでも県体には出場しました。
もちろん軟らかいポールで、春の大会の1位から6位までが出ています。
当日は大雨で夏場なのに寒かったのを覚えています。
練習はほとんどできていません、そんな中で、雨で握りが滑り、
他の選手が消えていきます、残ったのはずっと優勝している選手と
私だけ、滋賀県で初めての2位以内が確定しました。
試技の順番は私が後です、お互い2回バーを落とし後がありません、
彼が3回目をパスし、私の順番です、これを落として、彼が次の高さを
失敗しても試技数の関係で私は2位でした。
とにかく跳ばないと勝てません、何も考えずに跳んだ気がします。
普段なら心配ない高さですが雨の影響でユニフォームはドボドボ、
握りも濡れて滑ります。
こんなこともあるのです、3回目にクリアーできました。
高さが上がります、彼に残されたチャンスは1回、私は3回ありますが、
冷えて足首がままならず、跳べる自信はありませんでした。
後輩に傘を掛けてもらい二人で「落とせ」「落とせ」、
人の不幸を願うなんて・・・・・。
結果、彼は握りが滑り失敗、この瞬間、私の優勝が決まりました。
失敗した彼が私に傘を掛けかけ「伊藤君に初めて負けたね、
おめでとう」と言ってくれたのを今でも覚えています。
中学校も高校も最後の大会で優勝、これも、チビがあきらめずに
続けてきたご褒美かも知れません。
ちなみに高3の時は172まで身長が伸び、その後174,7まで
伸びましたが175を超えることはありません、足るを知る・・・・です。
陸上部に入ったころは一番チビで足も遅い人間、そんな人間だけが
陸上を続け、滋賀県の大会で優勝する。
これも何かのご縁でしょうか、それとも、途中でやめていった友達が
願いを託したのでしょうか。
Posted by いとう茂 at 14:03│Comments(0)