2015年03月12日

さようなら、そして、ありがとうございました高田紘一さん

あなたの訃報に接したのはこの前の例会でした。
国旗とロータリー旗に喪章が掛けられてあり、
会員か元会員が亡くなったのかと考えましたが
そのような連絡は誰からも来ていませんでした。
もしかすると東日本大震災の前日だからか、
と、思っていました。

事務局の西村さんが沈んだ表情で寄ってきて、
「亡くならはったなぁ」「はっ、誰が?」
「高田さんがやな」「えっ、高田さん」
「そうや、高田さんや」念を押すように知らせてくれました。
「今月2日に亡くならはって、昨日、事務局に連絡があった」

お顔は以前から知っていましたし例会で同席させていただいたことも
ありましたが、親しくお話をする機会はありませんでした。
60周年の会長があなたに決まり、その後、委員会配属が決まる中で、
私が会報委員長の内示を受けた後の懇親会でご一緒し、
杯をいただいたのが最初だったと記憶しています。

酔いが回りあなたはワンマンショー状態で、「伊藤、座れ」
随分、高圧的な人だと感じる間もなく「何だ、その地味なネクタイは」
改めてあなたのネクタイを見ると鮮やかな赤いネクタイ、
その後も注意して見ていると、いつもオシャレなネクタイでした。
自分の服装にこだわる故、人の服装も気になるのでしょう。
でも、私はこのパターンを変えるつもりはありませんでした。

座ると「さぁ、飲め」杯を差し出し徳利を傾けて、じっと私の顔を見ていました。
「いやー」と言いながら私の頬をピタピタ両手で何度も叩きました。
あれは親愛の情だったのでしょうか。
痛くはなかったのですが、この年になって、それも一回り以上も上の人から
ピタピタ、少しムッとしましたが・・・・・。
「来年の会報委員長を拝命し、週報の作成をします」
そう言うと「そうか、よろしく」でした。

入会して2年足らず、副委員長の経験もなしにいきなり委員長でした。
それでも広報紙の作成は苦手ではありません、と言っても
我流の自己満足の域を出ない自信で、多くの会員が毎週
楽しみにしてくれるものが作れるか、少し不安はありました。

一番うれしかったのは、ガバナーの公式訪問の時の週報でした。
ガバナーにお礼を言う前に会長の時間で週報を褒めていただいた。
戦争の回想文を1枚、打って差し込んだものを見ての
言葉でした、あれは私が選び自分で編集したものですから
余計嬉しかったのです。

広報紙の役割は記録としての要素、啓発としての要素、
お知らせ、読み手の考えを誘導するような感想は入れず
読み手が自分で考えるような文章作りだと思っています。
あなたの尊敬する平澤興さんの文章も探して掲載しました。
あなたの気を引くというものではなく会長の思いを発信したかった。

60周年も盛大に無事終了しました。
その後、あなたは体調を崩し副会長に会長職を代行して
貰うようになりました、時々、本の差し入れをしましたが
律儀にいつも丁寧な手紙をいただきました。

体調が戻り例会でお顔を見る頃には会報から雑誌委員会に
籍を移して、高田年度の年報作成が私の仕事になりました。
表紙はあなたが会長の時、新年号を飾った比良山の挿絵で
決まり、1ページ目は会長の時間でよく話をされた「忠恕」の
揮毫をお願いし、快諾をいただきました。
私のあなたへの思いがいっぱい詰まった年報は3回雑誌の
委員会を経験した中で1番の出来栄えだと自負しています。

浅学菲才の私を随分持ち上げていただきました。
そんなあなたが、まさに忽然とこの世を去ってしまった、
豪快な呑兵衛がいなくなって寂しい思いをしているのは
私だけではないでしょう。
日銀の沖縄支店に勤務されていたこともあり、沖縄への思いも
人一倍強いものがありました。
6月23日の沖縄慰霊の日は火曜日です、会員でまたあなたの面影をしのぶ、
そんな日になればと願っています。

この前の例会の前にロビーで外を見ていると、比良山の
残雪が目に入りました。
あなたが、お別れのメッセージを送っているようで・・・・・。
75歳という時間の中で平成22年という1年が、あなたにとって
忘れられない時間となったように、私の記憶にも一番強く
残る1年です。

ありがとうございました、安らかにお眠り下さい、さようなら。

Posted by いとう茂 at 12:51│Comments(0)
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