2015年04月20日
根っこ
選挙カーで走っていると、手を振ってくれる人がいます、
地元では声も掛けていただきます。
ありがたいことです。
他の学区に行くと知らない人は軽く会釈をしてくれますし、
子どもたちはどこに行っても手を振ってくれます。
そうした人たちの根っこは善なのか悪なのか。
個人的には、人間の根っこは善だと思っています。
声を掛けられて思わず会釈をしたり手を振ってくれる人の
根っこは善だと思いますし、声を掛けられて知らんふりをするのは
「なんていう人間なんだ、悪く思われたくない」だから会釈ぐらい
しておこうと考える人は悪に近いのかもしれません。
悪というと言葉が不適切ですから、いい人だと思われたい、
これは多くの人にある気持ちでしょう。
そして無反応な人にも二通りあるように思います。
しっかりと決めた支援者がいる人、誰にどう思われても
決めた支援者だけにしか手を振らない人です。
そうした人とは違って選挙に無関心な人、誰が来ても知らん顔、
是非は別にして一本筋が通っているように思います。
根っこというには例えが悪いかもしれませんので、話題を変えます。
国会でも地方議会でも思想・信条による派閥があります、
そして、その支持者が全国にいます、選挙が始まると特に
そうした人たちを色分けして、応援する、しないを決めてしまいます。
100人の思想・信条が違う候補者が人がいたとしましょう。
そしてその100倍、1万人のそれぞれの支持者がいます。
普段の生活や選挙中なら色分けしていますが、100人の
政党、思想・信条が違う候補者の中の一人が道端で苦しんでうずくまっています。
その人を、私の考えとは違うからといって放っていけるでしょうか。
「大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか」そう声を掛けるのが
一般的だと思いますし、逆に1万人の中の一人が道端に
倒れていたら100人の誰もが「どうしました、大丈夫ですか」
そう声を掛けるでしょう。
思想・信条とその人の善の部分は違うと思います、
昔の人はいいことを言っています「罪を憎んで人を憎まず」
もちろん、思想・信条が違うことは罪ではありません、
考え方を否定することは許されてもその人自身を否定したり
憎んだりしてはいけないということが言いたいのです。
根っことは困っている人がいれば放ってはおけないという気持ち
つまり、誰もが持っている気持ちです。
それが善の気持ち、すなわち惻隠の情です。
自分が死にそうなくらい苦しい時に助けてくれた人が
どんな思想・信条を持っていても、自分と同じ根っこを持っていると
感じられたら、普段から持っている、憎悪、否定という気持ちも
感謝に変わる気がします。
以前にも書きましたが、どんな良い人でも悪いところ、欠点は
ありますし、どんな悪い人でも良いところはあります。
それが人間だと思います、違いを認めるということは
受け入れるということですし、他人を許す、そして、至らない自分をも
許すということで、自分が救われることにつながるような気がします。
バタバタしていて、まとまりや取り止めのない文章になってしまいました。
もう出発の時間です、自分の根っこを大切にしっかり走ってきます。
地元では声も掛けていただきます。
ありがたいことです。
他の学区に行くと知らない人は軽く会釈をしてくれますし、
子どもたちはどこに行っても手を振ってくれます。
そうした人たちの根っこは善なのか悪なのか。
個人的には、人間の根っこは善だと思っています。
声を掛けられて思わず会釈をしたり手を振ってくれる人の
根っこは善だと思いますし、声を掛けられて知らんふりをするのは
「なんていう人間なんだ、悪く思われたくない」だから会釈ぐらい
しておこうと考える人は悪に近いのかもしれません。
悪というと言葉が不適切ですから、いい人だと思われたい、
これは多くの人にある気持ちでしょう。
そして無反応な人にも二通りあるように思います。
しっかりと決めた支援者がいる人、誰にどう思われても
決めた支援者だけにしか手を振らない人です。
そうした人とは違って選挙に無関心な人、誰が来ても知らん顔、
是非は別にして一本筋が通っているように思います。
根っこというには例えが悪いかもしれませんので、話題を変えます。
国会でも地方議会でも思想・信条による派閥があります、
そして、その支持者が全国にいます、選挙が始まると特に
そうした人たちを色分けして、応援する、しないを決めてしまいます。
100人の思想・信条が違う候補者が人がいたとしましょう。
そしてその100倍、1万人のそれぞれの支持者がいます。
普段の生活や選挙中なら色分けしていますが、100人の
政党、思想・信条が違う候補者の中の一人が道端で苦しんでうずくまっています。
その人を、私の考えとは違うからといって放っていけるでしょうか。
「大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか」そう声を掛けるのが
一般的だと思いますし、逆に1万人の中の一人が道端に
倒れていたら100人の誰もが「どうしました、大丈夫ですか」
そう声を掛けるでしょう。
思想・信条とその人の善の部分は違うと思います、
昔の人はいいことを言っています「罪を憎んで人を憎まず」
もちろん、思想・信条が違うことは罪ではありません、
考え方を否定することは許されてもその人自身を否定したり
憎んだりしてはいけないということが言いたいのです。
根っことは困っている人がいれば放ってはおけないという気持ち
つまり、誰もが持っている気持ちです。
それが善の気持ち、すなわち惻隠の情です。
自分が死にそうなくらい苦しい時に助けてくれた人が
どんな思想・信条を持っていても、自分と同じ根っこを持っていると
感じられたら、普段から持っている、憎悪、否定という気持ちも
感謝に変わる気がします。
以前にも書きましたが、どんな良い人でも悪いところ、欠点は
ありますし、どんな悪い人でも良いところはあります。
それが人間だと思います、違いを認めるということは
受け入れるということですし、他人を許す、そして、至らない自分をも
許すということで、自分が救われることにつながるような気がします。
バタバタしていて、まとまりや取り止めのない文章になってしまいました。
もう出発の時間です、自分の根っこを大切にしっかり走ってきます。
Posted by いとう茂 at 12:37│Comments(0)