2015年11月13日
無頓着
無頓着、恰好を気にしない、一向に構わない、そんな意味ですが、
仏教だったと思います、無貪着という言葉があります。
貪はむさぼる、着は執着の着でこだわるとかひっつく・・・
頭に無をつけることで、むさぼることから離れる、
そんな解釈をしていますが、無頓着と同じ意味なのかと思います。
流行を追ってセンスの良い服を身に着けるのも自由ですし、
靴を脱いだら親指が飛び出すソックスをはくのも自由です。
センスの良い服を着ている人はバーゲンで売っている服には
無頓着かもしれませんし、穴があいたソックスをはいている人は、
穴があいていてもあいていなくても無頓着でしょう。
人は人生の中でいろいろな役が回ってきます、男、父親、夫、課長、
自治会長・・・・・・もっとたくさん抱えていると思いますが、役だけでなく
時には無頓着を演じなければいけない時間があるかもしれません。
たとえば、夢を実現させるための試験に落ちた子どもの親、
「お前が、もっと勉強していたら合格したのに!」そういう親もいるでしょう、
しかし、多くの親は腫れ物を触るようにそっとしておき無頓着を装うのでは
ないでしょうか。
心は寄り添っていても態度は無頓着、私もそうするかもしれません。
無頓着と似た言葉で無関心というのがあります。
こだわらないということと、興味や関心がないということですので
本質は全く違うと思いますが、見た目は似ているように思います。
ただ、ある物事に対して無頓着と無関心を演じるとなると、
見ている方には同じように映るかもしれません。
人は誰でも心に大なり小なり傷や触れて欲しくない部分があるものです。
マスコミは時としてそうした、人に触れて欲しくない部分を報道の自由、
知る権利と言って土足で踏み込んできます、そうなって当然の人はともかく、
と、言ってもわれわれがそうなって当然と認識するのもマスコミ報道です、
インタビューでもすべてを流すわけではなく、編集したものがテレビで
報道されるのが一般的です、そのインタビューが意に沿ったものかそうでないかは
インタビューを受けた人には選択できませんし、人に触れて欲しくない部分について
報道の自由と言う名の下には、本人の気持ちには無頓着、無関心のごとく非情な
振る舞いが許されるのがほとんどのように思います。
もし、私たちが、その人に問題があって、触れて欲しくない部分を触れるとすれば、
そこにあるのは好奇心でしょうか、それとも正義感でしょうか。
人の不幸は蜜の味かもしれませんが、自分にその人が隠している部分を
触れることが許されるのでしょうか、どんな正義感、何を持って正義と言えるのか、
問題があった人をそのままにしておくべきだと言っているのではありません。
天網恢恢疎にして漏らさず、いずれその人には問題相応のペナルティーが
あるように思いますし、そう信じたい。
だから、問題がある人の触れて欲しくない部分には無頓着でありたいし、
もっと無関心でいたいと思います、短い人生の中で他にしなければいけない
大切なことが多くあります。
仏教だったと思います、無貪着という言葉があります。
貪はむさぼる、着は執着の着でこだわるとかひっつく・・・
頭に無をつけることで、むさぼることから離れる、
そんな解釈をしていますが、無頓着と同じ意味なのかと思います。
流行を追ってセンスの良い服を身に着けるのも自由ですし、
靴を脱いだら親指が飛び出すソックスをはくのも自由です。
センスの良い服を着ている人はバーゲンで売っている服には
無頓着かもしれませんし、穴があいたソックスをはいている人は、
穴があいていてもあいていなくても無頓着でしょう。
人は人生の中でいろいろな役が回ってきます、男、父親、夫、課長、
自治会長・・・・・・もっとたくさん抱えていると思いますが、役だけでなく
時には無頓着を演じなければいけない時間があるかもしれません。
たとえば、夢を実現させるための試験に落ちた子どもの親、
「お前が、もっと勉強していたら合格したのに!」そういう親もいるでしょう、
しかし、多くの親は腫れ物を触るようにそっとしておき無頓着を装うのでは
ないでしょうか。
心は寄り添っていても態度は無頓着、私もそうするかもしれません。
無頓着と似た言葉で無関心というのがあります。
こだわらないということと、興味や関心がないということですので
本質は全く違うと思いますが、見た目は似ているように思います。
ただ、ある物事に対して無頓着と無関心を演じるとなると、
見ている方には同じように映るかもしれません。
人は誰でも心に大なり小なり傷や触れて欲しくない部分があるものです。
マスコミは時としてそうした、人に触れて欲しくない部分を報道の自由、
知る権利と言って土足で踏み込んできます、そうなって当然の人はともかく、
と、言ってもわれわれがそうなって当然と認識するのもマスコミ報道です、
インタビューでもすべてを流すわけではなく、編集したものがテレビで
報道されるのが一般的です、そのインタビューが意に沿ったものかそうでないかは
インタビューを受けた人には選択できませんし、人に触れて欲しくない部分について
報道の自由と言う名の下には、本人の気持ちには無頓着、無関心のごとく非情な
振る舞いが許されるのがほとんどのように思います。
もし、私たちが、その人に問題があって、触れて欲しくない部分を触れるとすれば、
そこにあるのは好奇心でしょうか、それとも正義感でしょうか。
人の不幸は蜜の味かもしれませんが、自分にその人が隠している部分を
触れることが許されるのでしょうか、どんな正義感、何を持って正義と言えるのか、
問題があった人をそのままにしておくべきだと言っているのではありません。
天網恢恢疎にして漏らさず、いずれその人には問題相応のペナルティーが
あるように思いますし、そう信じたい。
だから、問題がある人の触れて欲しくない部分には無頓着でありたいし、
もっと無関心でいたいと思います、短い人生の中で他にしなければいけない
大切なことが多くあります。
Posted by いとう茂 at 14:47│Comments(0)