2024年01月08日

忘れる

年をとると物忘れがひどくなる、若くても物忘れが激しい人もいますが、物を忘れることは人間に与えられた特権かも知れないと、感じることがあります。
忘れては困ることもありますが、その事柄自体ではなく、そこから受けた印象、嬉しかった、楽しかった、辛かった、悲しかった、苦しかった、憎かった。
そうした印象は時間が経つと薄らぐように思います。
この薄らぐことは忘れていっていることにつながるのではないか、そんなことをぼんやりしながら考えていました。
楽しい、嬉しい、辛い、苦しいがそれなりに枝葉を落として、幹も削られていく。
私が子どもの頃は、学校でも地域でも体罰という暴力が普通でしたので、子どもはそれが大人の気まぐれであっても受容しなければいけませんでした。
もちろん、こちらに非があっての体罰も多くありました。
「中学校時代の●●先生は怖かったなぁ、何回殴られたやろ」
そうした怖かった体験も何十年も経つと、懐かしい思い出に変わっています。
許せない裏切り行為で憎んだ相手がいたとして、10年くらいは忘れることなく憎んでいたとしても、いつしか憎しみを忘れている時間が増えたり、いつまでも消えない憎しみは、ずっと裏切り行為を引きずっていて、新しい一歩が踏み出せないでいると考えて、こだわりを捨てよう、憎い相手を許せないまでも考えずにおこうとする人はいると思います。
事柄に抱いていた感情を違う何かにすり替える、これも時間が経過してできることです。
その事柄が起きた時には、そうしたすり替えの気持ちなど湧かなかったのに、これも広い意味では忘れるということではないかと思います。
振り返って「あの頃は苦しかったなぁ」と考える時に、その苦しみは当時とは別物になっている気がします。
これはどうしてだろう・・・。
自分なりの結論ですが、それは自己を破壊しないための防衛手段であり、人間の優しさかもしれないと考えています。

Posted by いとう茂 at 17:57│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。