2014年02月21日
ただ心を込めて黙々と・・・・・
今の日本を見て時々漠然とですが思うことがあります。
日本人はどの地方の人をとらえて日本人と言うのだろうと・・・・・。
東日本大震災の避難者が体育館で夕食を受け取った後
取材に応じている映像が頭に残っています、記者の
「この夕食で満足していますか」と言う問いかけに中年の男性が
「ありがたいことです」と言ってパンとウインナーそれと、おでんの竹輪らしい
物が映っていました、その映像は3月のものではなく、
おそらく夏前のものだったと記憶しています。
平成7年に発生した阪神淡路大震災の炊き出しに行った
事は以前にも書きましたが発生してから1週間後に
灘と東灘に行きました、夜の11時ころ大津市の消防車に先導してもらい
東灘に着いたのは3時を回っていたでしょうか、仮眠をとったのですが
泊らせてもらったのは東灘の商店街連盟の役員をされている方の
大きなビルで電気も水道も大丈夫でしたので意外な感を受けました。
3時間ほど休んで6時過ぎに全員起床したのですがまだあたりは
暗くほとんど何も見えない状態でしたが朝食の炊き出しの準備を
していると周りは壊れた家や傾いた家、ガレキが多くあり
テレビと同じだと改めて被害の大きさに驚きました。
ハンドマイクで炊き出しができたことを告げて周辺を回りましたが
土の匂いと焼け焦げた匂いが入り混じっていました。
一回りして帰ると列ができていて振る舞われた炊き出しが熱くておいしいと
歓んでいただき、中には家で動けない家族が待っているからと
鍋を持参する老人もあり10時前に灘の小学校に移動しました。
そこには1000人を超える避難者がいるということで持参した食料は
1500人分、東灘で400食余りを配りましたので足りるか不安でしたが
とにかく大きな鍋を温めたり焼きそばを焼きだしたり、12時少し前には寒い中
長蛇の列ができ焼きそばが追い付かない状態でしたが
黙って列に並んでいる人がほとんどで受け取るごとにみなさん
「ありがとう」と言って下さり待たせたこちらが恐縮しました。
帰り際に責任者をしている人が出てきて丁寧にお礼を言っていただき
改めて恐縮しました、大きな鍋やコンロを置いて行ってもらえないかと
お願いをされましたが借り物でしたので置いてくることはできませんでしたが
水を入れて持って行ったポリタンクが20ほどありましたのとブルーシートは
よかったら使ってくださいと置いてきました。
その1か月後にこの近くの小学校にもう一度行きました、
その時はうどんだけに絞り2000食用意して行きましたが、着いて準備を始め
出来上がる少し前に校庭から受け取りに来てくれるよう呼びかけましたが
反応が今一つでしたので、校舎に入って教室を回り呼びかけました、
徐々に受け取りに来る人はいますがひと月前とは明らかに変化がありました。
そうこうしているうちに急に人が増えて列が長くなったのですが、
並んでいる人が話しているのが聞こえます「そうか昨日より熱くてうまいのか」
そんな会話でした、それで並んでいる人に昨日の炊き出しはもう一つでしたか、
と訊ねると申し訳なさそうに頷きましたが、後ろの人は昨日のはまずかった
とはっきり言いました、炊き出しのボランティアの皆さんは、食い物を持ってきてやったぞ、
そら食べろ、そんな気持ちではないはずです、同じ国に住む人間として見ていられず
何かしてあげたい、その気持ちの表れだと思います。
大なべだけではうどんの出汁が足りませんので小さな鍋で湯を沸かしていましたが
風が強いのと火力が弱くなかなか沸騰しませんでした、その間も列は増え続けていました。
スタッフがもう少し待ってくれるよう並んでいる人にお願いをしていたのですが、
「まだか」「遅いな」「いつまで待たすんや」そんな声があちこちから出ます。
そのたびに全員が「すんません」。
2000食が配れたのはおそらく1時30分は回っていたでしょう。
ちょうど今頃の時期でしたので校庭に並んで待つ人は寒かったろうと思います。
電気が復旧していたのでそれから綿菓子を作りました、1台しか機械を持ってきて
なかったのでこちらもすぐに長い列ができました、大きい綿菓子を作ってあげたいのですが
時間がかかりますので小さめのを作って配りましたが子どもたちに交じって
お年寄りも並んでいます、おばあさんがおいしそうに食べるのを見て綿菓子も持ってきて
よかった、全員がそう思いました。
帰り支度を始めたのは4時を回ったころでした、配るものがないので校庭には誰もいません、
その時に女性が一人出てきて「ありがとうございました、子どもが綿菓子喜んでいました、
何か手伝うことありませんか」。
もちろんこちらは手伝ってもらうことなんか考えていませんのでお断りをしたのですが、
ガスボンベや鍋をトラックに積み込むのを手伝ってくれました。
さっきの「まだか」「遅いな」、そんな人もいればこうして手伝ってくれる人もいる、
その時も日本人の本性について考えました、どちらの心も私の中にある、
できるだけ穏やかで人を思いやれる人間でいよう。
非常時だから平時だからと言うことは関係なしに今日あったことは忘れずにいよう、
そう思っているのですが、ついつい忘れて「まだか」「遅いな」と叫ぶ自分に気付くことがあり
そのたびに反省し、また忘れて反省、それの繰り返しが続いています。
一握りの個人の言動を持って関西人と東北人を論じることは大きな間違いでしょう、
いろんな心を持った人がいる、その人たちに分かってもらおうと考えず、
自分は自分のやらなければいけないことを気持ちを込めて黙々とやればいい。
いつ立場が変わるか分からないのだから・・・・・。
日本人はどの地方の人をとらえて日本人と言うのだろうと・・・・・。
東日本大震災の避難者が体育館で夕食を受け取った後
取材に応じている映像が頭に残っています、記者の
「この夕食で満足していますか」と言う問いかけに中年の男性が
「ありがたいことです」と言ってパンとウインナーそれと、おでんの竹輪らしい
物が映っていました、その映像は3月のものではなく、
おそらく夏前のものだったと記憶しています。
平成7年に発生した阪神淡路大震災の炊き出しに行った
事は以前にも書きましたが発生してから1週間後に
灘と東灘に行きました、夜の11時ころ大津市の消防車に先導してもらい
東灘に着いたのは3時を回っていたでしょうか、仮眠をとったのですが
泊らせてもらったのは東灘の商店街連盟の役員をされている方の
大きなビルで電気も水道も大丈夫でしたので意外な感を受けました。
3時間ほど休んで6時過ぎに全員起床したのですがまだあたりは
暗くほとんど何も見えない状態でしたが朝食の炊き出しの準備を
していると周りは壊れた家や傾いた家、ガレキが多くあり
テレビと同じだと改めて被害の大きさに驚きました。
ハンドマイクで炊き出しができたことを告げて周辺を回りましたが
土の匂いと焼け焦げた匂いが入り混じっていました。
一回りして帰ると列ができていて振る舞われた炊き出しが熱くておいしいと
歓んでいただき、中には家で動けない家族が待っているからと
鍋を持参する老人もあり10時前に灘の小学校に移動しました。
そこには1000人を超える避難者がいるということで持参した食料は
1500人分、東灘で400食余りを配りましたので足りるか不安でしたが
とにかく大きな鍋を温めたり焼きそばを焼きだしたり、12時少し前には寒い中
長蛇の列ができ焼きそばが追い付かない状態でしたが
黙って列に並んでいる人がほとんどで受け取るごとにみなさん
「ありがとう」と言って下さり待たせたこちらが恐縮しました。
帰り際に責任者をしている人が出てきて丁寧にお礼を言っていただき
改めて恐縮しました、大きな鍋やコンロを置いて行ってもらえないかと
お願いをされましたが借り物でしたので置いてくることはできませんでしたが
水を入れて持って行ったポリタンクが20ほどありましたのとブルーシートは
よかったら使ってくださいと置いてきました。
その1か月後にこの近くの小学校にもう一度行きました、
その時はうどんだけに絞り2000食用意して行きましたが、着いて準備を始め
出来上がる少し前に校庭から受け取りに来てくれるよう呼びかけましたが
反応が今一つでしたので、校舎に入って教室を回り呼びかけました、
徐々に受け取りに来る人はいますがひと月前とは明らかに変化がありました。
そうこうしているうちに急に人が増えて列が長くなったのですが、
並んでいる人が話しているのが聞こえます「そうか昨日より熱くてうまいのか」
そんな会話でした、それで並んでいる人に昨日の炊き出しはもう一つでしたか、
と訊ねると申し訳なさそうに頷きましたが、後ろの人は昨日のはまずかった
とはっきり言いました、炊き出しのボランティアの皆さんは、食い物を持ってきてやったぞ、
そら食べろ、そんな気持ちではないはずです、同じ国に住む人間として見ていられず
何かしてあげたい、その気持ちの表れだと思います。
大なべだけではうどんの出汁が足りませんので小さな鍋で湯を沸かしていましたが
風が強いのと火力が弱くなかなか沸騰しませんでした、その間も列は増え続けていました。
スタッフがもう少し待ってくれるよう並んでいる人にお願いをしていたのですが、
「まだか」「遅いな」「いつまで待たすんや」そんな声があちこちから出ます。
そのたびに全員が「すんません」。
2000食が配れたのはおそらく1時30分は回っていたでしょう。
ちょうど今頃の時期でしたので校庭に並んで待つ人は寒かったろうと思います。
電気が復旧していたのでそれから綿菓子を作りました、1台しか機械を持ってきて
なかったのでこちらもすぐに長い列ができました、大きい綿菓子を作ってあげたいのですが
時間がかかりますので小さめのを作って配りましたが子どもたちに交じって
お年寄りも並んでいます、おばあさんがおいしそうに食べるのを見て綿菓子も持ってきて
よかった、全員がそう思いました。
帰り支度を始めたのは4時を回ったころでした、配るものがないので校庭には誰もいません、
その時に女性が一人出てきて「ありがとうございました、子どもが綿菓子喜んでいました、
何か手伝うことありませんか」。
もちろんこちらは手伝ってもらうことなんか考えていませんのでお断りをしたのですが、
ガスボンベや鍋をトラックに積み込むのを手伝ってくれました。
さっきの「まだか」「遅いな」、そんな人もいればこうして手伝ってくれる人もいる、
その時も日本人の本性について考えました、どちらの心も私の中にある、
できるだけ穏やかで人を思いやれる人間でいよう。
非常時だから平時だからと言うことは関係なしに今日あったことは忘れずにいよう、
そう思っているのですが、ついつい忘れて「まだか」「遅いな」と叫ぶ自分に気付くことがあり
そのたびに反省し、また忘れて反省、それの繰り返しが続いています。
一握りの個人の言動を持って関西人と東北人を論じることは大きな間違いでしょう、
いろんな心を持った人がいる、その人たちに分かってもらおうと考えず、
自分は自分のやらなければいけないことを気持ちを込めて黙々とやればいい。
いつ立場が変わるか分からないのだから・・・・・。
Posted by いとう茂 at 12:21│Comments(0)