2014年07月26日

目的と目標

よく聞く言葉ですし、同じ意味のようにも感じる言葉です。
それは違うという方も多いでしょうし、同じだという方もいます。
目的はゴールで目標は通過点という方もいます。
これにも賛同します、イメージとして目的は遠い所にあり
目標はその手前にあるという感じが強い気がします。

いくつかの目標の積み重ねの先に目的があると言えばいいのでしょうか。
ワールドカップの日本の目的は優勝だと報じられていました、
そのために1歩手前の地区予選を勝ち上がることやテストマッチで
可能性のある選手を試し、本番での手ごまを増やすのは目標である
かもしれません。

この前、東京まで「こだま」で行きました、1時間に1本しかないこだまは
東京に着くまでの14駅でゆっくり停車し「のぞみ」の通過を待ちます。
もし、栗東駅ができていたらのぞみが通過するための待機駅になっていたと
思いますが滋賀県にある米原駅ともども待機駅なのか、
少し寂しい気がします、古来から交通の要所といわれている滋賀県ですが
もしかするとかませ犬、影武者、ただ利用されていただけ・・・・・。

その証がリニアのルートだったんだ!
滋賀県をリニアは通る予定はありません。
おだてられるとすぐ舞い上がり、誰かがおかしいというとすぐに同調してしまう、
それが滋賀県人気質なのでしょうか。

滋賀県人気質はおいて置き、元に戻ります。
頭の中で整理がついていませんので脈絡がおかしいかもしれません、
5月に四国を歩きながら考えていたことです、88ヶ所を回るのが目的だと
考えると、一つ一つの札所は目標といえます。
その目標の積み重ねが88になるのですから。

目標に到達するために札所まで歩くのですが、歩いているうちに札所に着くのが
目標だという考えが薄れてきます、というより今、歩いているのが目的ではないのか、
歩いている中で何かを感じ何かを思う、そのことに意味があり札所に着くことは
大きな意味を持たないのではないか、ただ無秩序や単調にならないための
メリハリとして札所があるのではないか、そんな感が強くなります。

確かに札所に着くとひとつの達成感はありますし、一心にお参りする自分がいます、
納経帳に朱印が増えていくこともひとつの手ごたえ、自己満足ではあります、
しかし、朱印をもらうのが目的ではない気がしてきました。
多くの人は納経帳や襦袢、掛け軸に朱印をいただき、そのご利益をありがたいものと
考えるでしょうし、私の中にもそうした気持ちはあります。

四国一周1200キロを歩き通した充実感も捨てがたいものがありますが、
こと、四国に関しては目標、目的については札所間を歩き通すことが目標で
何かを思い、何かを感じ、何かに気づくことが目的だと最近考えるように
なりました、歩いて札所をめぐるということはとても贅沢に時間を使う
ことでもあります、車やバスなら1時間でつく距離を歩きは1日かけて
足を引きずりながら到着です。

自分を痛めることを喜んでいるのではありません、車で走ったら
今日はこれだけ札所が回れる、その発想と歩いてここまで行こうという発想は
似ていて非なるもののような気がします。
うまく表現できずに申し訳ありません。
三巡目の四国は残る札所が半分を切って32となりましたが後2年はかけないと
結願できないと思います、今年は時間が取れそうもありませんし、
来年も前半は選挙で動けません、ただ、行けない時に行ける時のことを思う
そのこともよい目標のような気がしますし、目的達成に貢献する気がします。

まったく整理できていない文章になりました、ペコリ。

Posted by いとう茂 at 12:36│Comments(0)
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