2014年09月25日

埃をかぶった本棚から②

発刊の日付から考えると平成8年の正月に京都で購入した本だと思います。
伏見稲荷と恵比寿神社にお参りして、ほろ酔いで京都のまちで
本屋巡りをして手にした一冊です。

時々読んでは忘れて、思い出しては読み、その繰り返しで最近まで
ほこりをかぶっていた本です。
15年以上たっても色あせずに刺激と気付きをいただけることに感謝です。

「道義」

志が立つに伴って、人間の本具する徳性や、理性、知性は、
反省ということを知って、ここに我々の思惟・行為に、
何がよろしいか、よろしくないかの判断を生ずる。
これを義という。義は宜である。
そして実践と離れることのできない性質のものであるから、
道義というのである。

これに反して単なる欲望の充足にすぎず、
往々それは志の害となりやすい性質のものを「利」と称してきた。
これを「義理の弁」という。

利が義と一致するほど真の利である。
「義は利の本なり」とか、「利は義の和なり」ということは正しい。

「見識」

我々の思惟・言説・行為について、何が義か、利か、何人もが良心的に
肯定することか、単なる私欲の満足に過ぎぬことかというような価値判断力を
見識という、見識は知識と異なる。
知は知性の機械的労作によっていくらでも得られるが、それだけでは見識にならない。
理想を抱き、現実の色々な矛盾・抵抗・物理・心理との体験を経て、
活きた学問をしてこなければ見識は養われない。

この見識に関連して、特にそれが現実の矛盾・抵抗に屈することのない
決断力・実行力を持つとき、これを胆識という。

「器量」

そこで人間はようやく現実の生活・他人・社会・種々なる経験に対する標準が立ってくる。
尺度が得られる。
自分で物をはかる(量・衡)ことができるようになる。
人は形態的に言えば、ひとつの「器」であるが、
これを物指しや枡にたとえて、器度とか、器量というのである。
「器量人」という言葉が昔からよく使われるが、つまり、多くの人を容れることのできる、
内容的に言えば、人生の色々な悩み苦しみを受け入れて、
ゆったりと処理してゆけることである。

古代、宰相を「阿衡」と称したが、阿は寄と同音で、天下が寄りかかれるだけの力を言い、
衡は「はかり」の棹で、平・直を意味する。
天下万民を信頼させて公平にさばくことができるという意味である。

この器度・器量に結びつけて、器識・器量ということもいわれる。
矛盾・衝突の多い国政などになれば、知識人などでは片々として頼りがない。
よほど識量・器識・胆識がなければならない。
晋の謝安とか、わが大石内蔵助の人物が、民衆の間に宣伝されるのは、
民衆によくこの人間的偉大さがわかるからである。

「信念」
こういう人間内容が、人生の体験を積んで磨かれてくるとともに、
だんだんその理想・見識というものが、深さ・確かさ・不動性を持ってくる。
それを信念という。
人間人生ほどおぼつかないものはない。
世は夢ということには何人も共感してきた。
金剛経の六如偈にいう「一切有為の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、
また電の如し」である。

西洋の学も何がREALであるかを尋ねて発達してきたと言ってよろしかろう。
人は信念を得て初めて事実に到達する。
実有を信じ、有徳を信じ、有能を信じ、よく心をして境において澄浄ならしめる。
事実なるがゆえに、盲目的な愛欲ではなく、
人生を汚染することなく愛することができる。

以上です、文字では理解できるのですが、実際の言動と照らし合わせると
頭も体もまだまだ・・・・・・。
少しでも高みに上れるよう王道をしっかり見据えて・・・・・。

人能く道を弘む、道人を弘むに非ず

「人々こそが真理の道を高めるのだ。真理の道が人々を高めるのではない。」

今日は午後から守山です。
国民年金基金の代議員会、理事会が開催されます。
役員の定年が60歳なので今回が最終の会議になります。
10年以上役員になっていますが正確にはいつからかは覚えていません。
加入者の掛け金は連合会で一括運用ですが、事務費や人件費など
予算と決算の承認のために1年で2回の会議が基本です、
意見を述べる委員が主に私ともう一人の女性の委員で、
私が抜けると一人になります。
老後のために掛け金を払っている加入者のために少しでも経費を
減らすよう提言してきました、次の委員がどんな人か知りませんが、
しっかり役目を果たしていただきたいと思います。

夜は大津で会議です、議会がないと会議があります。
生きている、生かされている、だからこそ・・・・・です。


Posted by いとう茂 at 12:34│Comments(0)
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