2014年12月31日

今日限り

2014年も今日限りになりました、食べ物関係や流通関係の人に
とってはかきいれ時で休みはもう少し先になる人も多くいるでしょう。
世の中そうした人だけでなくいろんな人や事故、事件があります。
こうしてブログを打っていられることをいつでも、いつまでも
幸せと感じられるそんな自分でありたいと願います。

年末も用事があり車に乗る機会は結構あります。
この時期の楽しみ、おそらく私だけだと思いますが・・・・・。
すれ違う車のナンバープレートを見るのが楽しみです。
いつもは滋賀がほとんどで京都、大阪、奈良などがポツポツ
それが年末年始には、今日すれ違った車だけでも品川、練馬、
大宮、新潟、石川、倉敷、福岡、熊本、・・・・結構ありました。
琵琶湖を見ると水鳥たち、お前らは・・・・・・シベリアか。

「抜粋のつづり」という小冊子を定期的にいただきます。
クマヒラ製作所が昭和26年から配布されているようです。
大型金庫のメーカーでセキュリティ関連の製品も手がけている
会社で月刊誌や新聞のコラムの抜粋集です。

その中の「雲は少しずつ動いている」というエッセーを
紹介して今年の締めくくりにします。
私がボンヤリ雲を眺めて気分転換しているのと違い
自分が生きていることを雲を見て実感している人がいました。
同じ雲を見ていたことがあるかもしれませんし、
同じ雲をいろいろな思いで見ている人がいることを改めて
認識しました、かなり長くなりますがお読みください。

「雲は少しずつ動いている」   後藤正治

旅先のホテルの部屋に入る。
ゴロンとベッドに寝転び、窓から見える空をぼんやり眺める。
雲は確かに動いている・・・・・と思う。
そんな小さな癖ともなった時間を持つようになったのは、
ある女性患者との出会いからである。

移植医療をテーマにした本を何冊か書いてきた。
新しい医学への興味から始めた仕事であったが、
長いテーマとなったのは仲田明美さんとの出会いが
あったが故である。

愛媛の出身。
少女時代から心臓病に苦しめられてきたが、
頑張り屋で大阪外国語大学を卒業している。
肺高血圧症が進行し20代の後半、国立循環器病センターでの
入院加療の日々が続いていた。

治療手段とすれば心肺移植しかないが、当時、
国内では臨床ができる環境はなく、米スタンフォード大学での
移植手術を受けることが一縷の希望としてあった。
彼女に出会ったのはそんな頃である。

生真面目で明晰な人だった。
自身、脳死が人の死であることを確信してから
移植希望の意思表示をしている臓器提供者(ドナー)及び
臓器需要者(レシピエント)となるか否かは
一人ひとりの自由な深い選択と言うのが彼女の考えであったが、
それは取材の中で私がたどりついたものと重なっている。

病室で幾度か話をした。
人と会話をするとそれだけで苦しくなって後で酸素吸入を
必要とする、それでも「今できることをやっておきたい後で
苦しくなるからと言って今お話をするのを我慢するのは嫌」
と言ったりした。

スタンフォード大学からの「渡米されたし」
と言う連絡はなかなか来なかった。
心肺移植のドナーが出にくい故であったが、
他にも理由があるような気配があった。
1取材者の分際を超えることになるが移植先進地の
取材も兼ねてノーマンシャムウェイ教授を訪ねた。
1986年夏である。

心肺移殖の成績が上がらず世界の外科医が臨床を止めてしまった
1970年代、唯一臨床を継続したのがシャムウェイである。
この分野の先駆者であるが、穏やかな老医学者であった。
「アケミ・ナカタの事はいつも気にはかけているが、
ドナーが現れにくい事情を汲んで欲しいそれに・・・・」

言葉を濁しつつもレシピエントとしては病状が進みすぎている、
と言う意味のことを口にした。
この部分は彼女には伝えられない情報だった。

やがて彼女は国内で臨床ができる日を待つと言う選択をする。
時間との競争に耐えうるか・・・・。
希望は閉ざされつつ月日は過ぎていった。
退屈でしょう、と聞いたことがある。
一日ベッドに縛りつけられて過ごす日々である。

思わず口をついて出た問いであったが、こんな言葉が返ってきた。
「今日は窓から見える空の雲の動きをじっと見ていました。
動いていないようでも、雲は少しずつ形を変えながら動いている。
生きているなぁって思う。
こんな風になっても、結局、1日をきちんと生きることしかないんですね。
・・・・・後藤さん、空を見上げる時ってあります?」

その日、病院を出たのは夜で、最寄りの駅まで空を見上げつつ
歩いた、満天の星空であった。
今日どちらがよく生きたのかそう思った事を記憶する。

「誰にも見せた事はないし、とても恥ずかしいんですが」
と言いつつ数冊の大学ノートを手渡された日があった。
折々の気持ちを綴った日記で詩も記されていた。
とても内容が深い。
これで原稿も書ける・・・・・・。

浅はかだった、他者の日記を預かると言う恐ろしさを知らなかった。
私が長く、彼女が亡くなって以降も臓器移植と言う重いテーマから
離れなかったのは、どこかで遺言を預かっていると感じていたからである。

今わが国でもようやく脳死移植の減少時代が到来している。
臨床例は数多くはないが成績も良く、移植以外に延命の
手段がない患者にとって希望の灯となっている。

それが閉ざされていた時代があった。
症例数を伝える新聞記事を読みつつ臨床前史を思う日がある。

雲は動いている。
今日一日きちんと生きましたか、
そんな声が届いてくる時もある。


熊谷君コメントありがとうございました。
長いサラリーマン生活ご苦労様でした。
私は生まれてずっとこの町で暮らしています、
そのことがよかったのかどうかわかりませんが、みんなが
帰ってきたときに浦島太郎にならないように
この町で生きています。

灯台のようにみんなを導くことはできませんが、
帰ればあいつがいる、そう思ってもらえたらと思っています。

また、楽しくおいしいお酒を飲みましょう。


皆さんにとって明るくてほっこりした年が来ますようにお祈りしています。
来年もよろしくお願いします。



Posted by いとう茂 at 14:09│Comments(1)
この記事へのコメント
伊藤君、本当にそうだね!
帰ってきて浦島太郎になりかけていたけど、
イトやんのお陰でいろいろ教えてもらって、ほんと助かっています。

特にイトやんは現役議員でもあり、
情報量やアンテナの感度が違うのかな・・・。
また膳所小時代の友達や恩師の事もいろいろ教えて下さい。

先日の話では大津市も近い将来人口減少社会になり、
地域社会との交流がますます大切になるよね。
10年のブランクはあるけど、これから徐々にネットワークを増やし、
何か地域に貢献できるような活動ができたらいいな・・・と考えています。

来年は選挙の年だね。
また僕たちの先頭に立って、
膳所、晴嵐、大津の街を引っ張っていって下さい。
応援しています!

来年も宜しくお願いします。

PS:奥さん、お母さんにも宜しくね!
Posted by 10年ぶりに戻ってきたクマさん at 2014年12月31日 18:32
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