2015年03月17日
東日本大震災追悼文
もう4年が経ちました。
そして阪神淡路大震災からは20年という時間が流れました。
二つの大きな震災を経験した私たちですが、幸いなことに
直接被害を受けることはありませんでした。
救援物資や義援金、中にはボランティアで現地に行かれた方も
おいででしょう、東北のでは、今でも復興が進んでいない
まちもあります。
発災当時、わがことのように心を痛め、悲痛な日々を送った
人も多かったと思います、時間はすべてを過去に飲み込んでいくのでしょうか。
同じ場所に立ち止ることが難しいのはよく分かります。
だからこそ、時々振り返って痛んだ人を思いやる、心を寄せる、
そんな必要があると思います。
この追悼文に関して誹謗や中傷がありますが、彼女が
肉親を亡くした事実は消えることはありません。
時が元に戻らない中で、彼女がどんな4年を送ってきたか、
その事を思うと、やはり心が疼きます。
東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加さん(石巻市出身)
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!
元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、
地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、
かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、
瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、
近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年。
あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、
15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
全てが、今もまだ夢の様です。
しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、
東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」
という気持ちにいつもなることが出来ます。
震災で失った物はもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。
しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも
増やしていける物だと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、
震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、
しっかり前を向いて生きていきたいと思います。
最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、
本当にどうもありがとうございました。
また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。
今年は終戦から70年目の年です。
自然災害は日ごろの備えで被害を最小限度にとどめるしか
方法がないかもしれませんが、戦争は人間の意思でとどめることができます。
「平和」このことの大切さを今一度考える時期にしたいと思います。
そして阪神淡路大震災からは20年という時間が流れました。
二つの大きな震災を経験した私たちですが、幸いなことに
直接被害を受けることはありませんでした。
救援物資や義援金、中にはボランティアで現地に行かれた方も
おいででしょう、東北のでは、今でも復興が進んでいない
まちもあります。
発災当時、わがことのように心を痛め、悲痛な日々を送った
人も多かったと思います、時間はすべてを過去に飲み込んでいくのでしょうか。
同じ場所に立ち止ることが難しいのはよく分かります。
だからこそ、時々振り返って痛んだ人を思いやる、心を寄せる、
そんな必要があると思います。
この追悼文に関して誹謗や中傷がありますが、彼女が
肉親を亡くした事実は消えることはありません。
時が元に戻らない中で、彼女がどんな4年を送ってきたか、
その事を思うと、やはり心が疼きます。
東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加さん(石巻市出身)
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!
元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、
地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、
かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、
瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、
近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年。
あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、
15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
全てが、今もまだ夢の様です。
しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、
東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」
という気持ちにいつもなることが出来ます。
震災で失った物はもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。
しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも
増やしていける物だと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、
震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、
しっかり前を向いて生きていきたいと思います。
最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、
本当にどうもありがとうございました。
また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。
今年は終戦から70年目の年です。
自然災害は日ごろの備えで被害を最小限度にとどめるしか
方法がないかもしれませんが、戦争は人間の意思でとどめることができます。
「平和」このことの大切さを今一度考える時期にしたいと思います。
Posted by いとう茂 at 12:27│Comments(0)