2018年02月06日
比良の暮雪②
近江八景の一つの比良の暮雪の続編です。
昨日は草津から見た比良山をアップしました、今日は昨日、
少しだけ書いた髙田紘一さんが描かれた絵をアップします。
所属している会の事業は7月1日に始まって翌年の6月30日に
終わります。
入会して3年目を迎える年に会報委員会の委員長を拝命し、
毎週、会の週報を作ることになりました。
火曜日が例会で週報の初校は木曜日の午後に上がってきます。
金曜日の夕方が二校、三校となると月曜日の午前中で翌日の例会に
間に合わせなくてはなりません。
髙田さんが挿絵を持参されるようになったのは9・10月頃から
だったと思います、月初めの週報には今月の言葉をお願いし、
それを掲載していましたが、必ず前月の第3か第4の例会には
次の月の言葉をいただいていました。
その時一緒に挿絵も「使えることがあれば使ってくれないか」
そんな軽い調子で頼まれたのを覚えています。
この挿絵は12月の例会で預かりました、例年、新年号は
写真同好会のメンバーが撮影した日の出や正月らしい写真が
週報の一面を飾っていましたが、会長が自らお持ちになった挿絵で
私自身も写真よりも挿絵の方がいいと判断しましたので、
委員長の権限で挿絵を一面にしました。
誰かに媚びたりお世辞を言うのは苦手ですので、いくら会長が
直接持ってこられてもふさわしくないと判断すれば・・・・・ボツ。
お酒が入ると陽気になられ、盃を勧めては説教とも質問とも
とれる言葉が次から次へと出てきましたし、時にはムッとする
辛らつな言葉も浴びせられましたが、憎めない人でした。
私より15歳年長ですが、時には子どものような無邪気な一面も
見せられましたが、普段は毅然とした紳士でした。
オンとオフの切り替えはさすがだと何度も感心したものです。
しかし、髙田さんは年が明けると体調が悪くなり入院生活を
送られました。
元気に例会に出てこられるようになったのは年度が替わって
いたころだったと思います。
新しい年度は年報を作成する委員会に配属されました。
これも恒例になっていましたが年報の巻頭は会長の写真、
他人事ながらよく照れ臭くないなぁと感心していました。
髙田さんは写真はやめてほしいと言われましたので、
それでは会長の時によく話をされた「忠恕」の文字の
揮ごうをお願いし巻頭を飾りました。
表紙は比良の暮雪の絵で決まりです。
まさに、自分の思い通りのしつらえで年報の作成ができました。
そんな髙田さんは2015年の3月2日に他界されました、存命なら
もう少しで80歳に手が届く年齢です、暮雪の絵は私の手元に
ありますし、忠恕の色紙は髙田さんの女房役の幹事の手元に、
それぞれが髙田さんの形見を大切に持っています。
そして、思い出も・・・・・・。
昨日は草津から見た比良山をアップしました、今日は昨日、
少しだけ書いた髙田紘一さんが描かれた絵をアップします。
所属している会の事業は7月1日に始まって翌年の6月30日に
終わります。
入会して3年目を迎える年に会報委員会の委員長を拝命し、
毎週、会の週報を作ることになりました。
火曜日が例会で週報の初校は木曜日の午後に上がってきます。
金曜日の夕方が二校、三校となると月曜日の午前中で翌日の例会に
間に合わせなくてはなりません。
髙田さんが挿絵を持参されるようになったのは9・10月頃から
だったと思います、月初めの週報には今月の言葉をお願いし、
それを掲載していましたが、必ず前月の第3か第4の例会には
次の月の言葉をいただいていました。
その時一緒に挿絵も「使えることがあれば使ってくれないか」
そんな軽い調子で頼まれたのを覚えています。
この挿絵は12月の例会で預かりました、例年、新年号は
写真同好会のメンバーが撮影した日の出や正月らしい写真が
週報の一面を飾っていましたが、会長が自らお持ちになった挿絵で
私自身も写真よりも挿絵の方がいいと判断しましたので、
委員長の権限で挿絵を一面にしました。
誰かに媚びたりお世辞を言うのは苦手ですので、いくら会長が
直接持ってこられてもふさわしくないと判断すれば・・・・・ボツ。
お酒が入ると陽気になられ、盃を勧めては説教とも質問とも
とれる言葉が次から次へと出てきましたし、時にはムッとする
辛らつな言葉も浴びせられましたが、憎めない人でした。
私より15歳年長ですが、時には子どものような無邪気な一面も
見せられましたが、普段は毅然とした紳士でした。
オンとオフの切り替えはさすがだと何度も感心したものです。
しかし、髙田さんは年が明けると体調が悪くなり入院生活を
送られました。
元気に例会に出てこられるようになったのは年度が替わって
いたころだったと思います。
新しい年度は年報を作成する委員会に配属されました。
これも恒例になっていましたが年報の巻頭は会長の写真、
他人事ながらよく照れ臭くないなぁと感心していました。
髙田さんは写真はやめてほしいと言われましたので、
それでは会長の時によく話をされた「忠恕」の文字の
揮ごうをお願いし巻頭を飾りました。
表紙は比良の暮雪の絵で決まりです。
まさに、自分の思い通りのしつらえで年報の作成ができました。
そんな髙田さんは2015年の3月2日に他界されました、存命なら
もう少しで80歳に手が届く年齢です、暮雪の絵は私の手元に
ありますし、忠恕の色紙は髙田さんの女房役の幹事の手元に、
それぞれが髙田さんの形見を大切に持っています。
そして、思い出も・・・・・・。
Posted by いとう茂 at 23:29│Comments(0)