2019年03月20日
抜粋のつづり③
「恩」
お盆という時期は、何かしら自分にまで連なる「いのちの系譜」
というか、自分の存在は「今ここだけではない」ということを
思わせる何かがあるような気がします。
あらためて「親と子」についても考え、親としての自分、
子としての自分を振り返ることになります。
その一つが「恩」という言葉ではないでしょうか。
「恩」という字は、上半分に「因」という字があります。
自分が「今ここに生きている」ということが成り立つためには、
本当に地球始まって以来のさまざまな歴史の積み重ねが
原因となって、たまたま今のこの瞬間が成り立っているのです。
単純に「あれとあれとあれ」というふうに言葉で説明が
つくものではありません。
ありとあらゆるもの全てが因となっているのです。
そしてその「因」という字の下に「心」があります。
私は恩という字を見ると、その因を心で受け止めよう、
というふうに感じるのです。
「恩」という言葉の元になったのは、古代インドの地方語の
「カタンニュー」という言葉で、翻訳すれば「我がために
為されたるを知る」という意味なのです。
昔から「子をもって知る親の恩」と言いますが、自分に
「子ども」といういのちを授かってみると、いつでも
何をしていても、いとおしく可愛い存在として、常に大きな
関心を抱かずにはおれません。
座るようになった、這うようになった。
つかまり立ちを経て自立し、歩くようになっていく姿について、
一挙手一投足を喜び讃えたくなって、写真や動画の撮影を
したりします。
そして「私がお父さんだよ」「私がお母さんだよ」と、子どもに
呼びかけ、子どもに知らしめて、早くそのように読んで欲しいと
待ち望みます。
それは、わが子に対して「あなたのいのちを、どんなことがあっても
守り、育み、成長させる親がここにいるよ」と報せることでもあります。
「苦しいとき、不安なとき、名を呼んでくれればすぐに駆けつけて、
あなたのために出来る限りのことをするからね」との
表明でもあります。
損得や依頼からではありません。
たとえ裏切られるようなことが起こっても、どこまでも信じ続けて、
見捨てることが出来ません。
自分が辛いときも、それ以上に子どものことが気にかかります。
毎年、お盆の季節が巡ってくると、ふと自分が生まれ育った頃の
親の願いや思いが想像されます。
私の父は、私が小学一年生の時に、三十一歳の若さで亡くなって
しまいました。
ですから、実際の記憶は断片的で、わずかに残っている写真から
復元された記憶かも知れませんが、一緒に入ったお風呂での
ある一瞬とか、自転車で家族ピクニックに行った時の情景などです。
しかし、そういう視覚的な具体的思い出だけでなく、もっと五感全体や
それを超えた何かが蘇ってきます。
それは私の願望の投映かも知れません。
幼い自分に向けられた父のやさしい眼差しや、かけられた言葉、
抱いてもらったり食べさせてもらったりしているときの、周りの
大人たちの笑顔や、自分を話題にしたおしゃべりなどです。
日ごろ私たちは、「私は」「私が」と自分を主語にして生活しています。
しかし、主語を自分から両親を含めた自分以外の人に変えると
矢印の方向が転換して、「私のために」「私のことを」というところに
意識が行くのです。
そうすると、あらためて気づかされることがたくさん出てきます。
「私は」と言ったとたんに、「私は〇〇さんよりも優れている」
「私は以前よりもレベルアップした」等々、他人や過去と比べて
考えてしまいがちですし、また、「私は〇〇ができなくなった」
「私は〇〇を失った」と、不足や不満や不快が心の表面に出て
しまいがちです。
しかし、「私のために」「私のことを」というところに意識が行くと、
生まれてこの方、私の存在をじっと支え、包み支援してくださった
さまざまな働きに思いがいくようになります。
「私のことを」生んでくださり、いつも案じてくださり「「私のために」
食べさせ、着せ、遊び、勉強を教え、尊いものをいろいろと
してくださったことが、有り難く感謝せずにはいられなくなります。
さらにその思いを進めれば、照らしてくれる太陽、恵みの雨、
吹く風、大地、それから、途切れることなくいただき続けて
きていることに気づかされるものです。
今年のお盆、「親と子」ということをきっかけにして、この「私」が
いつも見つめられ、願われ、支えられ、案じられていた「恩」に
思いを馳せてみましょう。
Posted by いとう茂 at 22:26│Comments(0)