2019年03月13日

東日本大震災から8年③

日々、風化していきそうな阪神淡路大震災と
東日本大震災、震災の様子が報じられてももはや記録映像と
化してしまったように感じる人もいるかもしれません。
昨年会派で視察に行った宮城県の荒船地区の様子が
流れていました。
辛すぎる現実の中で、今も立ち上がれずに佇んでいる光景も
見ました。
一歩を出すのに模索しているのでしょう。
同じ国に住む人間として、何を共有できるのでしょう。
痛み、辛さ、悲しみ、虚しさ、絶望感・・・・・・。
何かを共有するという姿勢ではなく、ただ黙って寄り添う、
そんなことはできないのでしょうか。

福島県遺族代表の追悼式での言葉を紹介します。

 
あの日から8年の月日がたちました。
しかし、あのとき感じた心の痛み、そして絶望は決して
消えることはありません。

平成23年のきょう、突然発生した大地震と10メートルは
あろうかという巨大な津波により、私は最愛の妻を失いました。

あの日、私は福島県浪江町にある勤務先で地震に遭いました。
鉄筋コンクリート建ての建物が大きく左右に揺れ、
地面からは水が噴き出していました。
とっさに津波が来ると思った私は、急いで自宅に戻り、
急いで妻を連れて、車で山の麓まで逃げました。
後ろを振り返ると、真っ黒な壁のような津波が、住宅を
のみ込み、白い煙を立ち上げながら襲って来るのが見えました。
私は思わず山によじ登り、妻を引き上げようと手をひいているうち、
瞬く間に津波にのみ込まれ、その手が離れていったことを
覚えています。
私は木の根に足が挟まり流されずにすみましたが、
一緒だった妻を見つけることはできませんでした。

その後、原発事故による避難指示が発令され、震災から
約1カ月後に妻は遺体で発見されましたが、私が
対面したときにはすでに火葬され、骨つぼを渡されただけでした。
せめて自分の手で弔ってやりたかったと今も自責の念に堪えません。

妻がいなくなって8年が過ぎました。
今は、最愛の妻の笑顔と、共に過ごした思い出を心に刻み、
妻の分まで精いっぱい生きていこうと思っています。

最後に、ふるさと浪江町の復興は、地震や津波被害からの
復旧のほか、避難住民や放射能の問題などいまだ数多くの
課題が残されている状況です。
しかし、これまでにいただいた全国の皆さんからの温かい
ご支援や励ましのお言葉を糧にして、皆が協力し合いながら、
復興に向かって一歩ずつ着実に歩を進めていくことを、
犠牲となられたみ霊に改めてお誓い申し上げ、
遺族代表のことばといたします。 

Posted by いとう茂 at 23:12│Comments(0)
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