2019年05月31日

おじいさん

自分が高齢者だと実感するとき、階段の上り下りが
苦痛、膝が痛い、腰が痛い、朝早く目が覚める、夜更かしが
辛い、物忘れが激しくなった、体を動かすのが億劫、
反応が遅くなった・・・・・・。
自分ではこうした自覚はないのですが・・・・・・。
水曜日に子どもの和太鼓の新入会員向けに見学会を
した帰りに、小学1年生の男の子が発した言葉が・・・・・・。
「太鼓のおじいさんや」
続いて母親が「こらっ」・・・・・とどめでした。

母親も私の娘より若いのでしょうから、1年生の男の子にしてみれば、
自分のおじいさんよりも上の人間を見ればおじいさんと、呼ぶのは
自然なことです。
それでも・・・・・・、自分ではまだおじいさんと認識していません。
朝のスクールガードは、孫の年代の子どもを見守る役目ですので、
自分のことを緑のお爺さんと呼んでいますが、他人から改めて
「おじいさん」といわれると、少なからず心が折れそうになります。

曽野綾子さんが40歳ころに書いた「戒老録」という本があります、
ある意味、これは長年私の座右の書ともいうべき本で、新刊、
補増版、完本、と書き足されており、50年近く前によくこんな
発想ができたなぁと、感心させられます。
その中に、人から優しくされたら年寄りだと思え。
そんな内容の記事があったと思いますし、逆の、口答えされたら
対等に扱われている、という記述もあります。

人からどう見えていようと自分は自分、サムエルウルマンの
「青春の詩」を紹介して負け惜しみとします。

青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易(やすき)に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。
人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。
悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬・夜空に
輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心
・子供のような探究心・人生の喜びとそれに対する興味を変わらず
胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを
感じ取ることができる限り、その人は若いのだ。
感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。

Posted by いとう茂 at 22:14│Comments(0)
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