2019年10月11日

忘れていた思い出②

会社勤めをした経験は1度だけあります。
高校を出て3年だけサラリーマンをしていました、毎月給料を
もらう生活、ちなみに議員は8年しましたがこちらは給料とは
言わずに報酬です、どう違うか・・・・雇用契約の有無です。
高校3年生になると、進路の決定があり就職試験の解禁は、
9月か10月の1日からでしたが、私の場合は2学期に入っても
クラブばかりしていて、進路の決定とは無関係の生活でした。

もともと進学の意思はなく・・・・・親が東大か京大でないと
行かさないと、今なら冗談だとわかるのですが当時は就職
しかないと頑なに思っていました。
12月に入り進路担当の先生に呼び出されて、どうするのか
聞かれその席で進学なら学校推薦枠で関関同立の推薦を
一人だけできるという事でしたが、親が東大、京大ですので、
どちらがレベルが上か聞いた記憶があります。
もちろん・・・・・。
関関同立と言えば関西の私学では名門ですが、その知識すら
なく、学校から近い所で就職先を探してくれるように
頼んで、化粧品や日用品の卸会社に決めました。

就職試験は一人だけです、しかも試験は小学校の算数と
国語のような計算問題と漢字のテスト・・・・これが試験なの。
無事に就職が決まり、山科支店に配属され、倉庫で商品の
管理と得意先への商品出しと、その配達が3年間と決められて
いました。
楽しくサラリーマン生活を送っていて、3年目が始まる4月に
途中入社で男性がやってきました。
朝礼で社長が、途中入社だが彼にも3年間倉庫で商品出しと
配達をしてもらうと明言されたのは鮮明に覚えています。

私が20歳で彼は20代後半だったでしょうか、人当たりもよく
上司の受けもよかったのですが、仕事が遅いのとうまく手を
抜くことが見えてきました。
大阪や奈良までの配達もありましたが、彼以外は一人で行って
3時から4時には会社に戻り、翌日の配達のために商品出しを
するのですが、彼はいつも2人で行って帰りは終業間際、
これが常態化していましたので、同僚が彼と一緒に行った後輩に
どこで手間取っかただすと・・・・「喫茶店で時間までサボってました」
ひどいのは、風呂屋に行ってましたというのもありました。

そのことを彼に詰め寄ると、へらへらしてのらりくらり。
年が明ければ4月からは私は営業ですので、彼にはかまわずに
仕事をしていましたが、1月の朝礼で社長が4月から営業に回る
人間の名前を挙げた中に、彼の名前も入っています。
「えっ、約束が違うやん」親にも会社にも相談せずに翌日、
「一身上の都合により3月31日で退社します」
これで私のサラリーマン人生は終わりました。

余談ですが、勤めていた会社は現在はありません、卸業と
言う中間業なので会社のスケールがメーカーへの圧力になり、
仕入れ価格にも反映しますので、大阪に物流センターを作る
計画があったそうです、辞めて20年くらいしてからだと思いますが、
そのセンターの計画の中心人物が彼だったようで、計画が途中で
頓挫して資金繰りが悪化して会社は・・・・・という事だと聞きました。
個人的には社長が好きで社内旅行の新幹線でも社長の隣に座って
色々と話をしてもらいました。
懐かしくもあり、楽しくもあり苦くもある思い出ですが、人を見る目の
大切さを感じた3年間でした。

Posted by いとう茂 at 21:51│Comments(0)
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