2021年09月21日

糸賀一雄語録⑥

【そして何を学んだかと言えば、この世の役に立ちそうもない
重度や重症の子どもたちも、一人ひとりかけがえのない
生命を持っている存在であって、
この子の生命は本当に大切なものだということであった。
「人間」という抽象的な概念でなく、「この子」という生きた生命、
個性のあるこの子の生きる姿の中に共感や共鳴を
感ずるようになるのである。
ちょっと見れば生ける屍のようだと思える重症心身障害児の
この子が、ただ無為に生きているというのではなく、
生き抜こうとする必死の意欲を持ち、自分なりの精一杯の
努力を注いで生活しているという事実を知るに及んで、
私たちは、今までその子の生活の奥底を見ることのできなかった
自分たちを恥ずかしく思うのであった。
重症な障害は子どもたちばかりでなく、
この事実を見ることのできなかった私たちの眼が
重症であったのである。】

【重症の心身障害という限界状態に置かれている
この子らの努力を見て、かつて私たちの功利主義的な考え方が
反省させられたように、心身障害を持つすべての人たちの
生産的生活がそこにあるというそのことによって、社会が開眼され。
思想の変革までが生産されようとしているということである。
人が人を理解するということの深い意味を探求し、
その価値に目覚め、理解を中核とした社会形成の理念を
目指すならば、それはどんなにありがたいことであろうか。】

【在宅指導にせよ施設処遇にせよ、心身障害児がその発達を
全面的に保障される体制が、地域の中に、
当然のこととして確立することが望まれる。
特別なこととしてではない。
慈恵的なことでもない。
それは障害児も親も、住民(国民)の一人として、
その発達や生活の権利が守られるための具体的な施策であって、
そのために、優先的に財政が投入されるのを望むのである。】

Posted by いとう茂 at 15:11│Comments(0)
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