2011年10月27日
今日から秋の高体連
今朝、市役所に向かう途中、皇子山の陸上競技場には
高校生がたくさんいました。
秋の高体連か。
そう思って通り過ぎたのですが、ふっと考えてみると
もう40年が流れていました。
棒高跳び、1年生の秋は5位でした。
3年生から、1年生でお前より上の人間は
何人いるんや。と聞かれ1人ですと答えたのを覚えています。
ただ、秋の高体連は1種目に一つの学校から1人しか
出場できません。
夏の学年別近畿ジュニアの滋賀県予選では3位でした。
私より上の二人のうち甲賀高校の選手は2年生が出ていたので
この種目には出ていませんでした。
実質私は3位です。
この後二人に勝てない試合が続きます。
しっかり練習して、自分の中でも手ごたえがあり、今度は勝つ、
と思って臨んだ試合でしたが、
私が記録を伸ばしただけ二人も記録を伸ばしてきました。
2年の秋の高体連、最後まで残ったのは、
いつもの3人でした。
最初に脱落したのは私、また3位です。
悔しさでいっぱいでした。
二人はまるで私のことを気にもかけていないような素振りで
余計に悔しかったのを覚えています。
秋の高体連が終わると春まで半年近く試合がありません。
そして、春になるといよいよ3年、最終学年です。
その冬は自分でも感心するくらい練習をしました。
ウエイトトレーニングの日は練習が終わると
腕がパンパンで、脇にかばんを挟んでもらって、
定期券を手に持たせてもらい電車に乗りました。
家に帰っても、箸が持てません。
スプーンを握って食事です。
若さとはすばらしいことで、そんな状態でも
次の日には体のどこも痛くない。
走り込みも十分行いました。
自信をもって迎えた3年の春季県体、
結果はまた3位。
勝てへんのや、あいつらには。
3人がともに自己新の大会でした。
あんなに練習したのに3位。
それでも手ごたえはありました、棒高跳びは、
どれだけ硬いポールを使えるかで記録が違ってきます。
それまで3人の中で一番軟らかいポールを使っていたですが、
3月から一番硬いポールに変えて練習していました。
ただ、そんなに簡単に新しいポールに慣れることはありません。
だから、春の大会は今までの軟らかいポールを使ったのです。
握っている位置より高いバーを飛ぶことを「抜き」といいます。
同じ位置でも抜きが多いほど記録がいいわけです。
それまで、抜きでは3人のうちで私が一番多かったので
あきらめてはいませんでした。
次の大会はインターハイの近畿予選です、近畿で6位に入れば
インターハイに出られる。
好事魔多し。
バランスを崩し、上から落ちて足首を捻挫してしまいました。
大会まで1か月ぐらいだったと思います。
練習は2週間ほど歩行からジョギングしかできません。
硬いポールを使いこなす時間はありません。
軟らかいポールでは結果は見えています。
まともに走れない状態での近畿予選。
予想通りでした。
もうやめよう。
顧問の先生にそう告げに行きました。
先生は何も言いませんでした。
もうやめた。
なのに、授業が終わると自然と部室に足が向きます。
これには自分でも苦笑をしてしまいました。
残る大会は夏の県体だけです。
夏休みに入っても思い切り走れません、マネージャーが
医者に行けと言います。医者は生まれつき嫌いです。
医者に行くと思ったより重傷だったようで、
固まっているけれど、筋肉が足首におかしな巻き方をしている
と言われました。それからリハビリです。
県体まであと少し、手ごたえも自信もありません。
そんな中迎えた県体開会日、体育部長だった私は
前年度総合優勝校の代表として優勝旗の返還に行ってきました。
いよいよ、大会日。
人間万事塞翁が馬。
雨でした。雨は棒高跳びにとって大敵です。
グリップが滑るからです。
最終まで硬いポールが使いこなせなかった私にとって、
軟らかいポールはグリップが滑る心配がありません。
最終残ったのはまたも3人でした。
これ飛んだもんが優勝やろな。同じことを考えていたはずです。
試技の順は私が1番でした。
最初に飛んだら二人にプレッシャーがかけられる。
1回目の試技は3人とも失敗。
一人がその高さをパスしました。2人にプレッシャーがかかります。
2回目、私からです。フォームも何も覚えていませんがとにかく
クリアしました。
もう一人は失敗、3回目も失敗し2位以上が確定しました。
バーが上がります、私は2回失敗、相手は最後の試技です。
落とせば私の優勝、飛べば状況から相手の優勝だったでしょう。
そのバーは雨のマットに落ちていきました。
私の優勝です。
残る試技は1回、飛べばバーをあげられる。
そんなことを考えていると今バーを落とした彼が
「伊藤君に初めて負けたね、おめでとう、傘かぶしたるわ」
そう言って雨をしのいでくれました。
「ありがとう」しか言えなかったと思います。
その高さは飛べませんでしたが、満足でした。
最後に勝ったのはこれだけではありません、
中学校の時も3年の最後の試合で優勝しました。
6年間で優勝はこの2回だけです。
運がいいということではなく
努力するものは報われる
そして、報恩感謝です。
皇子山の選手の中にもそんな高校生がいることを祈ります。
高校生がたくさんいました。
秋の高体連か。
そう思って通り過ぎたのですが、ふっと考えてみると
もう40年が流れていました。
棒高跳び、1年生の秋は5位でした。
3年生から、1年生でお前より上の人間は
何人いるんや。と聞かれ1人ですと答えたのを覚えています。
ただ、秋の高体連は1種目に一つの学校から1人しか
出場できません。
夏の学年別近畿ジュニアの滋賀県予選では3位でした。
私より上の二人のうち甲賀高校の選手は2年生が出ていたので
この種目には出ていませんでした。
実質私は3位です。
この後二人に勝てない試合が続きます。
しっかり練習して、自分の中でも手ごたえがあり、今度は勝つ、
と思って臨んだ試合でしたが、
私が記録を伸ばしただけ二人も記録を伸ばしてきました。
2年の秋の高体連、最後まで残ったのは、
いつもの3人でした。
最初に脱落したのは私、また3位です。
悔しさでいっぱいでした。
二人はまるで私のことを気にもかけていないような素振りで
余計に悔しかったのを覚えています。
秋の高体連が終わると春まで半年近く試合がありません。
そして、春になるといよいよ3年、最終学年です。
その冬は自分でも感心するくらい練習をしました。
ウエイトトレーニングの日は練習が終わると
腕がパンパンで、脇にかばんを挟んでもらって、
定期券を手に持たせてもらい電車に乗りました。
家に帰っても、箸が持てません。
スプーンを握って食事です。
若さとはすばらしいことで、そんな状態でも
次の日には体のどこも痛くない。
走り込みも十分行いました。
自信をもって迎えた3年の春季県体、
結果はまた3位。
勝てへんのや、あいつらには。
3人がともに自己新の大会でした。
あんなに練習したのに3位。
それでも手ごたえはありました、棒高跳びは、
どれだけ硬いポールを使えるかで記録が違ってきます。
それまで3人の中で一番軟らかいポールを使っていたですが、
3月から一番硬いポールに変えて練習していました。
ただ、そんなに簡単に新しいポールに慣れることはありません。
だから、春の大会は今までの軟らかいポールを使ったのです。
握っている位置より高いバーを飛ぶことを「抜き」といいます。
同じ位置でも抜きが多いほど記録がいいわけです。
それまで、抜きでは3人のうちで私が一番多かったので
あきらめてはいませんでした。
次の大会はインターハイの近畿予選です、近畿で6位に入れば
インターハイに出られる。
好事魔多し。
バランスを崩し、上から落ちて足首を捻挫してしまいました。
大会まで1か月ぐらいだったと思います。
練習は2週間ほど歩行からジョギングしかできません。
硬いポールを使いこなす時間はありません。
軟らかいポールでは結果は見えています。
まともに走れない状態での近畿予選。
予想通りでした。
もうやめよう。
顧問の先生にそう告げに行きました。
先生は何も言いませんでした。
もうやめた。
なのに、授業が終わると自然と部室に足が向きます。
これには自分でも苦笑をしてしまいました。
残る大会は夏の県体だけです。
夏休みに入っても思い切り走れません、マネージャーが
医者に行けと言います。医者は生まれつき嫌いです。
医者に行くと思ったより重傷だったようで、
固まっているけれど、筋肉が足首におかしな巻き方をしている
と言われました。それからリハビリです。
県体まであと少し、手ごたえも自信もありません。
そんな中迎えた県体開会日、体育部長だった私は
前年度総合優勝校の代表として優勝旗の返還に行ってきました。
いよいよ、大会日。
人間万事塞翁が馬。
雨でした。雨は棒高跳びにとって大敵です。
グリップが滑るからです。
最終まで硬いポールが使いこなせなかった私にとって、
軟らかいポールはグリップが滑る心配がありません。
最終残ったのはまたも3人でした。
これ飛んだもんが優勝やろな。同じことを考えていたはずです。
試技の順は私が1番でした。
最初に飛んだら二人にプレッシャーがかけられる。
1回目の試技は3人とも失敗。
一人がその高さをパスしました。2人にプレッシャーがかかります。
2回目、私からです。フォームも何も覚えていませんがとにかく
クリアしました。
もう一人は失敗、3回目も失敗し2位以上が確定しました。
バーが上がります、私は2回失敗、相手は最後の試技です。
落とせば私の優勝、飛べば状況から相手の優勝だったでしょう。
そのバーは雨のマットに落ちていきました。
私の優勝です。
残る試技は1回、飛べばバーをあげられる。
そんなことを考えていると今バーを落とした彼が
「伊藤君に初めて負けたね、おめでとう、傘かぶしたるわ」
そう言って雨をしのいでくれました。
「ありがとう」しか言えなかったと思います。
その高さは飛べませんでしたが、満足でした。
最後に勝ったのはこれだけではありません、
中学校の時も3年の最後の試合で優勝しました。
6年間で優勝はこの2回だけです。
運がいいということではなく
努力するものは報われる
そして、報恩感謝です。
皇子山の選手の中にもそんな高校生がいることを祈ります。
Posted by いとう茂 at 23:35│Comments(0)