2011年11月01日

正しさとは

正しさとはなんでしょう。
30代のころに、世の中には自分にとって正しい
生き方と、自分にとって利益になる生き方がある、
その狭間で悩みました。

言い換えると善悪と損得です。

自分の物差しをどちらにするか、いつもいつも同じ物差しを
持っていない自分がいました。
ある時は、善悪、またある時は損得。

そんな時間がしばらく続き、そんな中でも、人には、
善悪を強制している自分。

自己嫌悪。

不惑を過ぎたころからは、善悪が多くなり、
ようやく最近、善悪が大部分になった気がしますが、
日常生活の中でのことなので、ここに、いきなり、
非日常の出来事が入ってきたら、金色夜叉の
お宮さんではないですが、
富山のダイヤモンドに目がくらんでしまうかもしれません。

弱き者汝の名は人間なり。

人間である以上、過ちは避けては通れません。
過ちて改むるにはばかることなかれ。
孔子様もおっしゃっています。

過ちて改めざるを過ちという。
これも孔子様です。

今夏、話題になった教科書問題、Aという出版社が
あるとしましょう、大津市では採択され、京都市では不採択。
二つの異なる事実、どちらが正しいのでしょう。
そのことにも、善悪と損得が絡んでいるかもしれません。

事実と真実。
事実はいっぱいあります。
真実もまたしかりです。

事実と真実が同一なら問題はありませんが、
違う場合の方が多いように思います。

自分の善悪の物差しが、果たして本当の善悪なのか、
照らし合わせる基準はあるのか。

人を殺してはいけないという不文律でさえ、
戦争の名のもとには正当化されてしまいます。

自分勝手な生き方を個人主義だと勘違いしている
人が多い昨今。私はそう思いますが、

方や、自分勝手な生き方こそが個人主義だと確信する
人がいるのも事実です。

単に価値観の差という言葉だけでは片づけられない
ことだと思うのは私だけでしょうか。

日本人としての道徳観の欠如を嘆き、
道徳教育の重要性を説く声もあります。
個人的には、賛成です。

みんなちがって、みんないい。
それは価値観の差を認めることであって、
個人の善悪、損得を認めるものではないと思います。

正しさを振り回すとき、自分の正しさが、
他人の正しさを駆逐することが自分の
満足になっていないでしょうか。

振り返って、いつもいつも正しさを考える時、
同じ深みでもがいている自分に気づかされます。

ただ、自分を肯定しないと物差しの
目盛そのものが無くなるか、狂ってしまいそうで。





Posted by いとう茂 at 16:36│Comments(0)
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