2016年06月28日

念ずれば通ず

四国を歩いていると札所に坂村真民さんの「念ずれば通ず」の
石碑がいくつかあります、晩年を松山で過ごされ多くの詩を
作られた真民ファンは今も多くいます。
私もその一人に加えていただけるか疑問ですが、本棚には
何冊かの詩集があります。
覚悟を決めて読むというスタンスではなく、ちょっと時間が
あるときに、パラパラめくって読み始めるということが多く、
どこまでとかどこからという読み方はあまりしていません。

生きていれば絶望や悲嘆の底であえぐ時があるものです。
どこにも光が見えず暗闇で怯えながら、じっと今が通り過ぎる時を
待つしかありません。
どうぞ、道が見つかりますように・・・・・。
そのことだけを念じ続け、重圧に押しつぶされそうになりながら、
心の置き場を探す、腹の底から寒さがこみあげてくるのがわかります。

念ずれば通ず、折れてしまいそうな気持をようやくつないでいるのは
信じるという行為、信じたい、信じなければ、揺れながらも念じ続ける、
その繰り返し、自分のことならどんなに辛くても、痛くても、負けるものか
そう言い聞かせて立ち向かうこともできますが、自分以外のことなら
言葉も届かず、手を差し伸べることもできず、ただ念じるだけで
自分の無力さを嘆く日々が永遠に続きそうな気持ちになります。

励まされている、力をもらっている、それも錯覚かもしれませんし、
そう思わないと、と自分を偽り思い込ませることもあります。
おのが身は滅びても、そこまで自分を捨てきっても事態は好転
するわけもないのに、そう思わずにはいられない時もしばしば
あります。

念ずる者より辛い思いをしている人がいる、そのことが一層念ずる
心を強くしますが、闇は晴れません。
中島みゆきに励まされたことは何度もあります。
自分の立ち位置を確保するためでしょうか、自分が生きていたい
からでしょうか。
自分では保身など考えてもいないのに、結果、保身になっている
生き様に気づき、さらに深い闇に入っていく。

目の前に壁などないのに心の壁が乗り越えられずに、逡巡と
彷徨の繰り返し。
中島みゆきの「小さき負傷者たちのために」はファイトや
命の別名とは違う形の私の応援歌です。

声もなき 小さき者たちは
見開いた瞳も乾(かわ)いて
力なき 小さき者たちは
ひれ伏して 爪まで縮(ちぢ)めて
愛のある人間と 愛のない人間の
微笑(ほほえ)みの違いなど 読みわけるすべもなく
疑わず まっすぐに付いてゆく
言葉持たない命よりも
言葉しかない命どもが
そんなに偉いか 確かに偉いか 本当に偉いか 遥かに偉いか
卑怯(ひきょう)と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に

仕方なく 小さき者たちは
己(おの)が身を 比べることなく
傷ついて 小さき者たちは
己(おの)が身の 落度かと詫(わ)びる
心ある人間と 心ない人間の
さしのべるその腕を 選びとるすべもなく
助け無(な)く 運命に耳を澄(す)ます
言葉持たない命よりも
言葉しかない命どもが
そんなに偉いか 確かに偉いか 本当に偉いか 遥かに偉いか
卑怯(ひきょう)と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に

言葉持たない命よりも
言葉しかない命どもが
そんなに偉いか 確かに偉いか 本当に偉いか 遥かに偉いか
卑怯(ひきょう)と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に
卑怯(ひきょう)と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に



Posted by いとう茂 at 14:15│Comments(0)
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