2016年10月16日

愛着・同情・打算

16万キロを走った車のことを書きました。
それほど高価な買い物ではありませんでしたので、金額的な
ことは別にして、6年間乗ってきた時間というものは車が
年を経て痛んでくるにつれて、ここまで乗ってきたんだから、
そんな愛着も出てきます、そして、ここで乗りかえてもこの
車は廃車になりスクラップにされる、まだ走るのにそれでは
かわいそうだという同情も生まれます。
そして、買い替えるとなるとそれなりのお金がかかる、
確かに次の車は、この車よりは乗り心地もいいだろうし、
燃費や装備もいいだろう、けれども必要なお金のことを
考えたら、まだ走るこの車でもいいかという打算も働きます。

16万キロを走り次は17万キロ、18万キロ、そのあたりまでは
大丈夫でしょうが30万キロまで走るとなると、修理も含めて
相当な覚悟がいるように思います。
覚悟ができない分、せめて大きな故障が起こるまでは、
大切に乗ろう、それほど長い時間ではないだろうから、そんな、
違う意味の同情とも憐みともつかない、諦めの部分が
入った気持ちが生まれてきます。

愛着、同情、打算、憐み、諦め、そんな気持ちを明確に
分離して生きていませんので、時には愛着と打算が混じったり、
同情と諦めが手をつないだりしながら時間が経っていくのでしょう。

人間同士、人間とペットでもこうしたことは起きています。
人間同士の話にすると、私を知っている人も多いので、ある意味
誤解があっても困りますので、人間とペットの関係に置き換えて
考えてみれば、もちろん人間から見た場合でペットがどう考えているか
それは全く無視ですが・・・・・。
人間同士でも、介護や看病で時々片方の一方的な考えで事が
進められることがあり、お葬式がすんだ後、遺影に向かって
「これでよかったのか」と自問する方もあるでしょうが、多くは
「これしかなかった」「十分に世話をしたから」と自分を
納得させる言葉を持っているのが人間かもしれません。

で、人間とペット、生まれたてのペットは見ているだけで可愛いもので、
多少悪いことをしても笑って済ませることができます。
赤ちゃんということでしょうか、しかし、ペットはすぐに年をとります、
こちらも同じだけ年を重ねているのですが案外ここが抜け落ちて
いる場合が多いものです。
犬が10歳を超えて老犬の域に達してくると手がかからなくなり
ますが、老後を考え、まず同情と憐み、根底には愛着がありますが、
そのうち動きが鈍くなり散歩もままならなくなると諦めが出て、
「これだけ可愛がったんだから」という打算も生まれるのではないでしょうか。

ペットが死んで悲しまない人はいないでしょうが、落ち込んで寂しがって、
そのあたりで、次のペットを飼うかどうか、しばらく飼えない人が
多いでしょうが、さっさと新しいペットを探す人もいるようです。
「うちで死んだペットはうちに来て幸せだったんだろうか」そんな反省を
する人は多いのでしょうか、少ないのでしょうか、その気持ちは
人間同士の関係に帰っていくように思います。

情が深すぎるのも問題ですが、薄情なのも問題でしょう。
ほどほどの愛情、これが何事においても難しいことだと16万キロの
愛車に乗って考えていたことです。


Posted by いとう茂 at 15:54│Comments(0)
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