2016年10月18日
悪気なく・・・・
悪気を調べると、人に害を与えようとする気持ち。悪知恵。
悪気なくと言うと、人に害を与えようという気持ちがない、
調べるまでもないのですが・・・・・・。
故意にではなくともいえると思います、悪気と悪意も同じ
意味でしょう。
「悪意があってやったわけではないから許してやって」
そんな言葉も時々耳にします。
確かに意図して人に害を与えようと思っていないのですから、
内容にもよりますが許すことがいいのかもしれません。
和太鼓の練習に来ている子どもたちを何人も見てきました。
それらの子どもたちがすべて悪気がなかったかはわかりませんが、
「人が話をしている時はバチをカチャカチャさせない、
太鼓をたたかない」そう言ってもカチャカチャもありますし、
太鼓をたたく子どももいます。
こちらの話を聞いていないのもあるでしょうし、それこそ
悪気なくそうしている部分があると思います。
子どもとはそういうもの、そう割り切ればいいのでしょうが・・・・。
それができないから何度も同じことを言うことになります。
何かの体験を通して気づきがないと、悪気なく何かをすることは
なくならないように思います。
悪気なくと言うことは繰り返し同じことをする、そのことにつながります。
子どもだから許される、これも内容によるでしょうが、そうした
風潮があるのも事実ですし、許されるから気付きもあるのでしょう、
許されないとしたら理解する前に服従するしかないように思います。
それでは子どもらしい自由な振る舞いができなくなりますし、
妙にひねたりすねたりする卑屈な大人になりそうにも思います。
子どもならまだしも、和太鼓に大人が練習に来て子どもたちと
同じように、カチャカチャやっていたら相手にされないでしょう。
別の角度から見ると子どもは無意識にカチャカチャ、大人は黙って
話が聞ける。
子どもは悪気がないからそうなりますが、大人は悪気があるから。
悪気というと言葉の響きが良くないかもしれません。
理性、常識、そんな言葉ならがいいのかもしれません。
ただ、平気で人を傷つけるような言葉を何度も吐く人や同じ
失敗を繰り返してする人は人間らしいというより、理性や常識が
ないということになってしまいます。
事実はそうでも、賢明な大人は「またか」「あの人はいつもそうなんだ」
そんな対応で済ませることがよくありますが、徐々にその人の評価は
下がることになります。
気づきは、見えないものが見えるようになる、聞こえないものが
聞こえるようになるという能力的なものではなく、ふとしたきっかけ。
そんな感覚的なものが多いように思いますが、袖すりあうも他生の縁、
悪気なくの行為は本人の気づきがないと直ることはありません。
私にも気づきのご縁がありますように・・・・・。
悪気なくと言うと、人に害を与えようという気持ちがない、
調べるまでもないのですが・・・・・・。
故意にではなくともいえると思います、悪気と悪意も同じ
意味でしょう。
「悪意があってやったわけではないから許してやって」
そんな言葉も時々耳にします。
確かに意図して人に害を与えようと思っていないのですから、
内容にもよりますが許すことがいいのかもしれません。
和太鼓の練習に来ている子どもたちを何人も見てきました。
それらの子どもたちがすべて悪気がなかったかはわかりませんが、
「人が話をしている時はバチをカチャカチャさせない、
太鼓をたたかない」そう言ってもカチャカチャもありますし、
太鼓をたたく子どももいます。
こちらの話を聞いていないのもあるでしょうし、それこそ
悪気なくそうしている部分があると思います。
子どもとはそういうもの、そう割り切ればいいのでしょうが・・・・。
それができないから何度も同じことを言うことになります。
何かの体験を通して気づきがないと、悪気なく何かをすることは
なくならないように思います。
悪気なくと言うことは繰り返し同じことをする、そのことにつながります。
子どもだから許される、これも内容によるでしょうが、そうした
風潮があるのも事実ですし、許されるから気付きもあるのでしょう、
許されないとしたら理解する前に服従するしかないように思います。
それでは子どもらしい自由な振る舞いができなくなりますし、
妙にひねたりすねたりする卑屈な大人になりそうにも思います。
子どもならまだしも、和太鼓に大人が練習に来て子どもたちと
同じように、カチャカチャやっていたら相手にされないでしょう。
別の角度から見ると子どもは無意識にカチャカチャ、大人は黙って
話が聞ける。
子どもは悪気がないからそうなりますが、大人は悪気があるから。
悪気というと言葉の響きが良くないかもしれません。
理性、常識、そんな言葉ならがいいのかもしれません。
ただ、平気で人を傷つけるような言葉を何度も吐く人や同じ
失敗を繰り返してする人は人間らしいというより、理性や常識が
ないということになってしまいます。
事実はそうでも、賢明な大人は「またか」「あの人はいつもそうなんだ」
そんな対応で済ませることがよくありますが、徐々にその人の評価は
下がることになります。
気づきは、見えないものが見えるようになる、聞こえないものが
聞こえるようになるという能力的なものではなく、ふとしたきっかけ。
そんな感覚的なものが多いように思いますが、袖すりあうも他生の縁、
悪気なくの行為は本人の気づきがないと直ることはありません。
私にも気づきのご縁がありますように・・・・・。
Posted by いとう茂 at 13:46│Comments(0)