2012年08月01日

やまだの作文③

東日本大震災で被災し、そこから学び、
将来を見つめる山田中学2年生の
作文を紹介します。

「今、原子力を考える」

3月11日。あの日から原子力への考え方が一変した。
2時46分の地震。今までに体験したことのない大きな揺れ。
大きく白波を立てて押し寄せた津波。
ただでさえ東北の人は苦しんでいた。
その中で、福島第一原発の事故が発生した。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。

僕はそれまで、原子力についてあまり考えたことがなかった。
原子力発電は、少ない原料で大きな電力を発電でき、
しかも地球温暖化で問題になっているCО2を排出しない
クリーンな発電方法。
ただ、発電に用いられた核燃料の
処理は地中奥深く埋めるしかない。でも、僕は、
安全で空気を汚さないならとてもいい方法だと思っていた。

そして3月11日。
僕の考えは全く逆の方向に傾き始めた。
今まで安全だと思っていた原子力発電が、人間に牙をむいた。
誰も想像していなかった。
想定外の津波の被害を受け、
冷却不能になった炉心はどんどん熱を持ち、
冷却用の水をどんどん蒸発させていく。
放射性物質を含む汚染された水や蒸気が空へ、
海へ放出された。
目に見えない放射能の恐怖が人々を襲い始めた。

毎日休むことなく育てた牛が汚染される。
土を作り水を与え、肥料をやり、
草をとって育てた野菜が汚染される。
海が、魚が汚染される。
牛の、魚の、植物の、そして人間の命が奪われる。
なぜこんなことになってしまったのだろうか。

これはだれかのせいなのか。
いや、これは便利な生活に慣れすぎ、便利な生活ばかりを
追い求めてきた私たちが悪いのではないだろうか。
「安全」も「科学技術」も「人間」も完ぺきではない。
世の中に「絶対大丈夫」はないのだ。
それも今回の震災が教えてくれたことだ。
今、誰のせいか話し合う時間も必要もない。

今この瞬間も、命がけで原子力を何とかしょうとしている人がいる。
放射能の恐怖から人々を守ろうとしている人がいる。

今この瞬間も、もう二度と戻れないかも知れない
故郷を思い続けている人がいる。

僕も家を津波に流された。
思い出の詰まった家、安心して暮らせる場所を
奪われた悲しみは深い。
でも、仲間のいる町にいることができる。
福島の人たちは、帰ることすらできない。

この現状を生んだのは、僕たちだ。
便利な生活のありがたさに気付かず、
資源には限りがあることを知りつつ、
便利すぎる生活を求め続けた僕たちだ。
震災は多くのものを奪ったが、たくさんのことを教えてくれた。
蛇口をひねれば水が出る、スイッチを押せば電気がつく、
温かい部屋で家族と過ごす、そんな当たり前の生活は、
決して当たり前のことではなく、多くの人たちに支えられていたこと。
原子力の安全を守ることは命がけなのだということを。

今、原子力に代わる自然エネルギーに切り替えようとか、
原子力発電をやめようとか思う人が増えてきた。
僕は思う。今、原子力発電をやめてしまったら
僕たちの生活はどうなってしまうのだろうかと。
ちょっとやそっとの節電では甘いと思う。
僕たちは今、自分たちの生活を振り返り、本当に必要なものは何なのか、
これからの生活に残すべきものは何なのか真剣に考えなければならないのではないか。
原子力を廃止するのではなく、
徐々に新しいエネルギーに切り替え、
自然と共存しながら安心して生活できる
未来を創っていかなければならないのではないか。

3月11日のあの日から、もう6ヶ月。
あの日のこと、あの時のことを忘れかけている人もいるかもしれない。
僕にとって、そして原子力を取り巻く人たちにとって、
あの日は始まりだった。
今も命を削って僕たちの安全を守ってくれている人たちがいる。
素直に心から「ありがとうございます」と伝えたい。
3月11日から学んだこと、それはしっかりと自分の目で見て、
自分で考えること。
僕たちは今、一つになり、行動しなければならない。


中学2年生の男子が書いた作文は、
私たち大人への、現代社会への警鐘であると思います。

今ある生活が当たり前でない。
そのことを認識するだけでも生活様式は変化
するかもしれません。
来週には広島、長崎の原爆の日、2週間後には、
敗戦の日、終戦記念日です。

300万人ともいわれる人が亡くなりました。
日本人だけでなく朝鮮、台湾の人を含めて。

その人たちの尊い犠牲の上に今の日本があります。
欧米列強に対抗し、東アジアの安定という名のもとに
おごり高ぶった日本人が暗躍した時代がありました。

今の日本人は個人ではそこまでおごり高ぶった人は
少ないかもしれませんが、全体で見た時には
どうでしょう。
義務を忘れ権利を主張する、メリットだけを追求し、
デメリットのことは考えない。

いじめの問題で、震災ガレキは消えてしまった。
関西広域連合では、宮城県側が広域処理の要請を
拡大しないと決めたために、環境省と協議し、
受け入れ準備中止との判断をしましたが、
大津市では、今までに、受け入れの是非も含めて、
どうすれば協力できるかさえ考えていなかったような気がします。

もしかして、義援金はガレキを受け入れないための、
受け入れの議論をしないための、東北に対する
手切れ金だったのでしょうか。

6月議会での私の質問に対する答弁も、
国、広域連合、フェニックスの受け入れ基準が違う、
そこまででした。
だから、大津市は動けないといったもので、
でも、大津市は、という答弁はありませんでした。

あーあ、また言ってしまった。


Posted by いとう茂 at 12:34│Comments(0)
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