2014年04月15日
記録と記憶
昨夜は海津の夜桜を見物に行ってきた。
散桜会かと思いきやまだまだ観桜会だった。
長浜から船で海津に向かったが途中、夕日が美しいと
多くの人がカメラや携帯を向け、竹生島の横を通ると
またシャッターを切っていた。
振り返って人生のほんの20年位かせいぜい25年前、
細い窓に出てくる文字を確認しながらポツポツと
キーボードを叩いていた、あれはワープロという
文明の利器、それから少ししてパソコンなるものが
出現した、95とか98とか進化していたが、今となってはどこがどう進化した
そんなことは覚えてもいない、フロッピーという四角い板が記憶しているという。
へぇー便利になったもんだ、変換しながら文章を作る、
作るたびに漢字を忘れていった、目も一気に悪くなった。
漢字だけでなく色んなことを忘れている自分がいた。
四角い板が覚えているという安心感がますます頭を空にしてく。
若い頃は脳みそに字を書くような感覚があった。
指先で叩くキーボードではなく鉛筆を持つのに
5本の指が協力して支えていた
それがどうだ、ブラインドタッチというのか、5本の指がばらばらに
決められたキーを叩く、それを分業というのだろう。
速ければいい。
それが世の中の主流だろうが、それがすべてだと思いたくない。
東京まで新幹線や飛行機で行けば3時間足らずで着くが
お金もそれなりに掛かる、鈍行で周りの景色を楽しみながら、
この街はこんなことがある、この街にはこの建物がある、
海が見えた、あの船は何を釣っているのだろう。
それでいて新幹線や飛行機より格安で東京に行ける、
いっぱい時間を使って贅沢な時間を過ごしたという価値観を
持つ人は少ないがそのうちそういう価値観も市民権を得る時が
来るかもしれない、いや、来てほしい。
四国の遍路は自動車だと10泊くらい、ツアーなら月1回、1年で1周、
歩きなら早い人で40日、遅い人なら50日以上、車なら1時間の所を
重い足を引きずりながら2日かけて歩く。
目に入る景色や風の音、地元のおじいさんやおばあさんとの会話。
贅沢な時間がゆっくり過ぎていく。
いろんなシーンを目の奥に焼き付け自分の足跡も覚えている。
そして費用は一番高い、自動車やツアーの3倍くらいかかる。
それでも時間の流れと足の痛さを実感しながら歩いている人がいる。
自己満足と言われれば反論できない、いや、反論する気もない。
歩いた人だけが得られる充実感、しっかりした記憶がこれからの
人生の添え木となる。
ツアーや自動車の人はカメラや携帯でパシャ、パシャ。
実は自分の頭には何も入っていないのに・・・・。
そもそも写真は人様に撮ってもらって、プリントしたものをいただくから
ありがたいのだしこれはあの時の、と、覚えていられる。
自分で撮った風景には自分は写らない。
自分がいない写真にどれだけの記憶が残るのだろう。
それに、フイルムでないからもったいないとかあと何枚という意識もない。
記録はCD,記憶はデジカメ、頭をどこかに置いてきたような気にならないのか、
探せば出てくるという不確かな手ごたえが現実。
でも、それは自分の代わりに食事をしてもらったり、トイレに行ってもらうようなもの、
それで済めば何よりだが、空腹は満たされないし、尿意もなくならない。
記録も記憶も頭と心でするもの、それをCDやUSB,デジカメに代わりをさせるというのは
人間放棄と言えないだろうか。
昨日、そんな思いで誰も歩いていない海津のトンネルを歩いていた。
二つ目までは灯りがついたトンネルだったが三つ目は真っ暗なトンネル。
それでも出口には桜の花がぼんやり見えていた、50メートル足らずのトンネルを
抜けると貸切の浜があった、ライトアップはないので暗い琵琶湖と月明かりに
ほのかに浮かぶ何本かの桜、波打ち際で小石を二つ拾ってきた。
Posted by いとう茂 at 14:00│Comments(0)