2025年05月14日
昭和100年
明日15日は父親の誕生日です、大正15年5月15日生まれで、生きていれば100歳になりますが、平成7年に68歳で亡くなっています。
大正15年は昭和元年と重なります、この年の子どもは大正15年、昭和1・2年と3年にわたって同級生、元号が変わる時しか生じないケースで、珍しいと言えば珍しいことです。
父親の年を超えて、私は昭和、平成、令和と3つの元号を生きています、そして父親は大正、昭和、平成の3つでした。
日本人の寿命からすれば3つの元号がレギュラーなものかもしれません。
父親は高校を卒業して満州に渡り、現地で招集され中国で戦闘に参戦して肩を負傷して日本に送還されたことは聞いていましたが、その後再び戦争に行ったかどうかは分かりません。
満州で働くと給料がよかったとも話していました、当時の給料は内地の校長先生と同じ程度で、給料を家に送ったら祖父から何か悪いことをしているのかと、巻紙で手紙が来たと言います。
祖父は心臓が悪く40代から仕事をせずに碁ばかり打っていたようで、父親が給料がいい満州に行ったのも納得できます。
当時の父親の兄弟は姉一人、妹一人、弟二人で生活はそれほど楽ではなかったのでしょう。
弟とは一回り以上離れていましたので、長男の父親に生活が懸かっていたと思います。
昭和28年に結婚の話があり、母親の家は農家だったので、祖父が強く結婚を勧めたということも話してくれました。
当時は食糧事情が悪く、農家なら食べるものに不自由しないということですが、人間の縁よりも食糧優先の時代があったのです。
それでも40年余りの結婚生活でしたが、夫婦仲もよかったと感じています。
昭和100年ということで父親の同級生は誰もいないと思いますし、父親の話をする人もほとんどいなくなりました。
せめて息子が誕生日くらいは父親のことを思い出してやらないと、先祖と言うと距離感がありますが、墓参代わりに仏壇に線香をあげたいと思います。
大正15年は昭和元年と重なります、この年の子どもは大正15年、昭和1・2年と3年にわたって同級生、元号が変わる時しか生じないケースで、珍しいと言えば珍しいことです。
父親の年を超えて、私は昭和、平成、令和と3つの元号を生きています、そして父親は大正、昭和、平成の3つでした。
日本人の寿命からすれば3つの元号がレギュラーなものかもしれません。
父親は高校を卒業して満州に渡り、現地で招集され中国で戦闘に参戦して肩を負傷して日本に送還されたことは聞いていましたが、その後再び戦争に行ったかどうかは分かりません。
満州で働くと給料がよかったとも話していました、当時の給料は内地の校長先生と同じ程度で、給料を家に送ったら祖父から何か悪いことをしているのかと、巻紙で手紙が来たと言います。
祖父は心臓が悪く40代から仕事をせずに碁ばかり打っていたようで、父親が給料がいい満州に行ったのも納得できます。
当時の父親の兄弟は姉一人、妹一人、弟二人で生活はそれほど楽ではなかったのでしょう。
弟とは一回り以上離れていましたので、長男の父親に生活が懸かっていたと思います。
昭和28年に結婚の話があり、母親の家は農家だったので、祖父が強く結婚を勧めたということも話してくれました。
当時は食糧事情が悪く、農家なら食べるものに不自由しないということですが、人間の縁よりも食糧優先の時代があったのです。
それでも40年余りの結婚生活でしたが、夫婦仲もよかったと感じています。
昭和100年ということで父親の同級生は誰もいないと思いますし、父親の話をする人もほとんどいなくなりました。
せめて息子が誕生日くらいは父親のことを思い出してやらないと、先祖と言うと距離感がありますが、墓参代わりに仏壇に線香をあげたいと思います。
Posted by いとう茂 at 11:18│Comments(0)