2015年03月29日

抜粋のつづり74集

ハンセン病患者に寄り添っていきた精神科医、
神谷美恵子さんの著作は今も読み継がれている。
私は半世紀近く前、岡山県瀬戸内市のハンセン病療養所
「長島愛生園」で彼女と共に働いた。

その時の感銘は忘れられない。
12日は生誕100年。
病に苦しむ人の心を支え、共に歩んだ神谷先生の横顔を紹介したい。
「なぜ私たちでなくあなたが?あなたは代わってくださったのだ」。
太平洋戦争中の43年、東京女子医学専門学校に在学中だった
先生が愛生園を訪れたときに書いた志の一節だ。

感染への恐怖からハンセン病に対する偏見や差別が激しかった時代。
卒業後、愛生園で働くことを望んだが、後に文部大臣を務めた父、
前田多門の反対などで叶わず、東大精神科医局に入る。
51年、大阪大教授に就いた夫の神谷宣郎さんに付き添い兵庫県に転居。
大阪大で研究生になった。
その後、愛生園行きが実現。
57から72年に瀬戸内海の長島に通ってハンセン病医療に携わった。

私は医師向けの会報を通じ先生が愛生園で働ける
精神科医を探していることを知り、連絡を取った。
62年、島に同行してすぐに勤務したい、と申し出た。
先生は津田塾大教授に就いたが、愛生園からは離れなかった。
私と交代で週末になると島に通っていた。

当時、園には1,500人ほどの患者がいた。
外来診療のあと、往診に出向くことも多い。
当直の日は痛みを訴える人から呼び出される。
私は原動機付自転車で島内を移動したが、
先生は何キロメートルも歩いて往診していた。
そのうち愛生園の隣にある邑久光明園、高松市沖合の大島青松園でも
往診するようになった。
兵庫県の自宅から愛生園まで5時間。
船で移動するだけでも大変だが、先生は弱音や愚痴を一切口にしなかった。

診察の合間には園内のライトハウス(失明者の集会所)に立ち寄り、
患者に話しかける、ハンセン病に続いて失明を宣告された人の苦しみに寄り添い、
支えた、悩みの相談にも親身に応じた。
患者だけでなく、看護師や職員も先生の来園を待ちわびているようだった。

先生の話には相手が喜びを感じ、清らかな気持ちになる不思議な力があった。
私もそう感じた1人、話しているうちに幸福感に包まれ
「この時間がずっと続いて欲しい」と思ったことがある。
誰とでも自然に話を合わせられる人だった。

たまたま私が不在の時電話を受けた妻が20分ほども話し込んで感激したと言う。
内容は今晩のおかずや家事全般についての会話だった。
数ヶ国語は堪能で、世界の哲学や思想文学の古典にも通暁した教養人。
でも主婦の本分を失わない。
買い物かごにいつもメモ用紙と鉛筆を入れ、思いついた事はすぐにメモし、
家事を済ませた後で整理していたと言う。

阪大時代は料理を作ったり育児をしたりするあいまに勉強していたようだ。
「私はながら族のはしりよ」といっていた。
数々の著書や訳書は、文字通り寸暇を惜しんで書いたものだと思う。
愛生園での先生は、まるで入園者に負い目を感じているように献身的だった。
生きがいを喪失した人、激しい痛みに襲われながら次第に失明して行く人らに向き合い、
発する一言半句を漏らさず受け止めた。
「なぜ生きなければならないのか」と考えるギリギリの心理状況では、
生半可な精神療法は無力だ。

共に苦悩していた先生の英知、全人格とでも言うべきものが患者の心の支えになっていた。
優れた教育者、研究者であると同時に、実践の人でもあった。
愛生園に来て故郷に帰れずに亡くなった人が眠る長島の万霊山に一緒に登った。
「もし許されるなら、私の骨でもここに納めてもらいたい」と語っていた姿が忘れられない。
先生が亡くなった時、宣郎さんから「葬儀は高橋先生にお願いしてほしいと言われていた」とお聞きし、
形式の決定や進行を手伝わせていただいた。
遺言とのことで蔵書も譲り受け、理事長を務める茨木病院の一角に置いている。
精神医学の貴重な本があり、今でも研究者が閲覧を求めてくる。
私の人生は先生との出会いが変わった。
茨木病院に戻ってからも「光明園に月に1度は行って欲しい」と言う先生の言葉を守り、
2005年まで通い続けた。
今は息子が引き継いでいる。
自宅に2つ、病院の机上に1つ、先生の写真がある。
多くの患者同様、私も先生に支えられて生きてきた

Posted by いとう茂 at 19:33│Comments(0)
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