2021年04月12日

膳所の町③

膳所の地名は平安時代に京都の朝廷に食材を
提供したことに由来すると言われています。
膳の所と書いて(ぜぜ)と読みますが、かなり難しい読み方のようで
「ぜんしょ」と読む人が多いようです。
膳所城ができるまでは葦が茂るのどかなところだったと聞いた
ことがありますが・・・・・・、築城とともに作られた町であることは確かです。
違っているかもしれませんが、膳所の町は西の庄村、木下村、
膳所村、中の庄村、別保村で構成されています。
これも60年近くになると思いますが、京阪電車の駅は膳所本町の次は
京阪膳所でした。
それが、途中に錦駅ができて現在に至っていますが、錦は西の庄村と
木下村の頭の文字をとってつけられています。

陪膳と書いて「おもの」と読んだり膳所の地名と言い、結構難しい
読み方ですが、私が所属している石鹿太鼓は「せきろくたいこ」と
読みます。
江戸時代に膳所城の大手門は4本足の門だということで、幕府から
チェックに来ますが、南門から入れて大手門の前まで来ると
石に犬の血を塗って門のところで鹿が暴れていますと、幕府の役人に
大手門を見せることなく帰らせて城を守ったということです。
ここから膳所城の別名を石鹿城という言葉が生まれています。
当時4本足の門は10万石以上の大名でないと作ることが許されて
いなかったようです。

和太鼓の会もこの機知に富んだ判断を尊重して30年前に作りました。
陪膳の浜という地名もあったようで冒頭の朝廷に食材を届ける
ための浜で、その後はお金持ちが増えてそのあたりを御殿が浜と
呼ぶようになり、現在も住居表示に使われています。
お金持ちがさぞ立派な家屋敷を構えていたのだろうと思います。
まだまだ多くの言い伝えが残っていますが、思い出したり忘れたり、
何かの拍子に・・・・なんでこんなこと考えてるんやろ・・・・・。
これも年齢からくるものなのでしょうか。

Posted by いとう茂 at 15:42│Comments(0)
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