2015年03月09日

山川草木悉有仏性 石の話

さんせんそうもくしつうぶっしょう
お釈迦様は山川草木悉有仏性と説かれました。
「悉有」とはことごとくあるという意味です。
つまり、普段何気なく見過ごしている自然界の
すべての物に、「仏性」仏の心、慈悲の心があると
説かれたのだと思います。

遠くに行って海や大きな川があると思わず、
石を拾う癖があります。
「君が代」の、さざれ石の 巌となりて、
小さな石が集まり大きな石、巌になるという意味だと解釈していますが、
私が拾うのは小石ばかりで、角がとれ丸くなったものや
変わった色の石ばかりです。
これから寄り集まって巌となろうとしているのかは定かではありません。

小石たちにも仏性があるとすれば、波に洗われ、風に吹かれながら
何を考えているのでしょう。
手のひらに入る小石も私より先にこの世にいるのでしょうが、
そんな石の寿命のことを考えることはあまりありません。

もとは何トンもある大きな石が大雨で川に流され、
ゴロゴロあっちぶつかり、こっちぶつかりしながら海に
運ばれ、そこでも波が浸食、石同士もガチン、ガチンぶつかり、
二つに割れたり、三つに割れたり、気の遠くなる時間の中で
今を迎えているのかも知れません。

河原も海も石の山の上にいるのは大きな石で、小さい石は
砂に潜ったり大きな石の下敷きになっています。
人間の組織の会長を頂に、副会長、役員、会員、そんな組織図と
重なる部分も感じますが、自然界は頂にあるべくしてある、
人間界に頂はなりたいという我欲の塊の人が頂にいる場合も
あるようです。

人間界は別にして、石には意思や意志があるのでしょうか。
隣り合わせの石と仲が悪いとか、良いとか・・・・・。
大きな石は小石を、小石はさざれ石を目指して角を削り
自分を削っていると考えると、一つの方向に向かう意思を
感じることができます。

たとえば、今日、私が拾う小石はもしかすると隣の石と
大の仲良しかもしれません、残された石は寂しさが募り
拾われた石は隣にいた石を偲ぶ日々を送る。
そして、拾われ部屋に置かれた石は風化がそこで止まるか
著しく遅くなり、偕老同穴の契りは切れてしまいます。

時間の長さは同じですが残った石は、動く術も持たず、
元いた場所の石をずっと思い続ける。
それも気の遠くなる時間・・・・・・。

仏性が欠けているのは自分の意思で考え動ける
人間かもしれません、川の水は上から下に流れることで、
円滑な自然活動をしていますし、大雨の時は多くの水を流し、
渇水の時は細くチョロチョロと水を流す。
樹木は雨が降ると水分を蓄え、成長がアンバランスにならないよう
公平に水分を分け合っています。

仏性、慈悲についてもう一度考えたいと思います。
今日もどうでもいい話、現実離れした話でした。

午前中は予算決算全体会が開催されました。
終了後、各常任委員会で付託議案の審議がありましたが、
所属している総務常任委員会は付託された議案が多く、
午後からも審議があります。

13日に各常任委員会の委員長から報告があり、採決の運びです。
後、特別委員会も水曜日にありますが、今日で山場を越えることになります。

  
Posted by いとう茂 at 13:03Comments(0)