2015年01月02日
抜粋のつづり②
大晦日に「抜粋のつづり」から文章を拝借してアップしました。
第72集で平成25年1月29日に発行された冊子から紹介したい
文章がありますのでアップします。
手元には73集もあり、毎年1月の発行ですので74集ももうすぐ
いただけるのかと、勝手に思っています。
どういった方が選者になっているのかわかりませんが
1年間、各新聞、文芸春秋、ラジオ、月刊誌等、多くの
書面に目を通しその中から30点あまりをまとめて冊子にする
作業は大変だと思います、私は活字が好きですので、今から
昔にもどって進路の選択をして、こういう仕事に従事できたら
幸せだと思いますが・・・・・。
どの作品も琴線に触れ胸の奥がジーンとなるものも少なくありません。
私の感性に合っているといえばそれまでですが、今年はこの
抜粋のつづりからいくつか紹介していこうと思います。
読む方にはご迷惑なところもあるかもしれませんが、忘れてしまったもの、
どこかに置いてきたもの、そんな気がするものをできるだけ選びたいと、
あと、私の好みも入ると思いますがお付き合いください。
「人はみな平等」
今から66年前の昭和20年太平洋戦争が終わった年の秋、
7歳だった私は疎開先の瀬戸内海の小島から兵庫県の
芦屋市にある母の実家へ引き上げてきました。
父が原爆被爆後の広島へ救助活動に行き、
疎開先で命を落とし、母は私を含めて4人の子供を連れて、
引き揚げる船賃に全財産をはたいたために、
一家は食うや食わずの有様でした。
我慢の限界を超える大事件
芦屋へ着いた翌日、私は祖母に連れられて、
地元の小学校へ行って2年に編入しました。
しかし、粗末な服で靴もなくてゴム草履姿で、真っ黒に日焼けした顔で
四国の方言しか話せなかった私は全校生徒の好奇心を刺激したのか
激しいいじめの対象になってしまったのでした。
毎日、私はたくさんの子供に取り囲まれて「ばい菌」「さる」「しね」
などと言う言葉を浴びせられ、小突かれたり蹴られたり砂や石を
投げつけられたりもしました。
しかし、私はじっと耐えていました。
母に言うと母が悲しむと思ったからです。
母は4人の子を食べさせるために1番電車で神戸へ行って
ケーキを仕入れそれを大阪へ運んで売るいわゆる
「担ぎ屋」を始めていました。
子供の目から見ても過剰な労働にやっと耐えている母に
どうしてもそんな話はできませんでした。
まして小さな弟や妹にそんな惨めな兄の顔を見せるわけにはいきません。
私は毎日、近くの小川で汚された手足や服や自分の泣き顔を洗って
平気な顔で帰ることにしていました。
しかし、ある日とうとう私の我慢の限界を超える事件が起きてしまったのです。
学校からの帰り道、五人ほどの近所の子供たちが待っていて、
いつもの通り私をいじめにかかりました。
が、その日は5年生の番長のようなKと言う名の子も混じっていて、
いつもより激しく迫ってきました。
「こら、お前今日の給食のパンを盗んだやろう?どろぼうめ!白状しせえ!」
と言って私の首を絞めにかかったのでした。
もちろん身に覚えのないことですから、私は必死に抵抗して、
夢中でその5年の番長の腕に噛み付いたのでした。
気がつくと、そのK君が腕から真っ赤な血をポタポタ落としながら
大声で激しく泣いていました。
私は自分がしたことの重大さに震えました。
もう家へは帰れないと思いました。
また、この町にももういられないと思いました。
そして鞄を持ったまま国道へ出て西へ西へと歩いたのでした。
神戸の港へ出て瀬戸内海へ行く船を見つけてあの島へ
乗せて行ってもらえないかと頼んでみよう。
いじめが突然なくなった
結局、私は空腹のために気を失って国道で倒れ、
夜遅くパトカーで我が家へ運ばれたのでした。
母はじっと私の話を聞いて「そうわかったはこれからすぐにKさんの
家へ行こう!」きっぱり言って私の手を引いて大きな庭や門構えがある
近所のKさんの豪邸を訪ねました。
無論、私は謝罪のために連れていかれると思いしょんぼりついていきました。
しかし、K家の玄関でK君のお父さんに会うと、母は謝るどころか、大声で
「あなたの息子さんに話があります、すぐにここへ呼んで下さい!」
とどなり、出てきたK君にいきなり
「君はうちの子を泥棒と言ったそうですが、それは本当ですか?
なぜ何を証拠にこの子を泥棒といったのですか教えてください!」
と問い詰めたのです、そしてしどろもどろに
「ごめんなさい冗談で言うたんですと」
泣き出したK君にさらに
「では、白状しろと3つも歳下の子供の首を絞めたのも、
冗談だったと言うんですか?」
と訊いたので、結局K君はお父さんと並んで土下座をして
私に謝ってくれました。
そして驚いたことにK君のお父さんは
「この息子が二度とこういう過ちを犯さないように、
彼の髪の毛を切って坊主にします」
と言って私の目の前でジョキジョキとはさみでK君の髪を切ったのでした。
その上K君のお父さんからの連絡で、次の日の朝礼で校長先生が
いじめをやめるように全生徒に注意してくださったので私へのいじめも
ぷっつりとなくなったのでした。
その日、私は母から人間は貧富・年齢などとは関係なく、
全てが平等に生きる権利を持っているということを教えられたのです。
そして、その権利を守るためにはしっかりとした認識や勇気ある行動が
必要であることをK君のお父さんからも教えていただいたのでした
第72集で平成25年1月29日に発行された冊子から紹介したい
文章がありますのでアップします。
手元には73集もあり、毎年1月の発行ですので74集ももうすぐ
いただけるのかと、勝手に思っています。
どういった方が選者になっているのかわかりませんが
1年間、各新聞、文芸春秋、ラジオ、月刊誌等、多くの
書面に目を通しその中から30点あまりをまとめて冊子にする
作業は大変だと思います、私は活字が好きですので、今から
昔にもどって進路の選択をして、こういう仕事に従事できたら
幸せだと思いますが・・・・・。
どの作品も琴線に触れ胸の奥がジーンとなるものも少なくありません。
私の感性に合っているといえばそれまでですが、今年はこの
抜粋のつづりからいくつか紹介していこうと思います。
読む方にはご迷惑なところもあるかもしれませんが、忘れてしまったもの、
どこかに置いてきたもの、そんな気がするものをできるだけ選びたいと、
あと、私の好みも入ると思いますがお付き合いください。
「人はみな平等」
今から66年前の昭和20年太平洋戦争が終わった年の秋、
7歳だった私は疎開先の瀬戸内海の小島から兵庫県の
芦屋市にある母の実家へ引き上げてきました。
父が原爆被爆後の広島へ救助活動に行き、
疎開先で命を落とし、母は私を含めて4人の子供を連れて、
引き揚げる船賃に全財産をはたいたために、
一家は食うや食わずの有様でした。
我慢の限界を超える大事件
芦屋へ着いた翌日、私は祖母に連れられて、
地元の小学校へ行って2年に編入しました。
しかし、粗末な服で靴もなくてゴム草履姿で、真っ黒に日焼けした顔で
四国の方言しか話せなかった私は全校生徒の好奇心を刺激したのか
激しいいじめの対象になってしまったのでした。
毎日、私はたくさんの子供に取り囲まれて「ばい菌」「さる」「しね」
などと言う言葉を浴びせられ、小突かれたり蹴られたり砂や石を
投げつけられたりもしました。
しかし、私はじっと耐えていました。
母に言うと母が悲しむと思ったからです。
母は4人の子を食べさせるために1番電車で神戸へ行って
ケーキを仕入れそれを大阪へ運んで売るいわゆる
「担ぎ屋」を始めていました。
子供の目から見ても過剰な労働にやっと耐えている母に
どうしてもそんな話はできませんでした。
まして小さな弟や妹にそんな惨めな兄の顔を見せるわけにはいきません。
私は毎日、近くの小川で汚された手足や服や自分の泣き顔を洗って
平気な顔で帰ることにしていました。
しかし、ある日とうとう私の我慢の限界を超える事件が起きてしまったのです。
学校からの帰り道、五人ほどの近所の子供たちが待っていて、
いつもの通り私をいじめにかかりました。
が、その日は5年生の番長のようなKと言う名の子も混じっていて、
いつもより激しく迫ってきました。
「こら、お前今日の給食のパンを盗んだやろう?どろぼうめ!白状しせえ!」
と言って私の首を絞めにかかったのでした。
もちろん身に覚えのないことですから、私は必死に抵抗して、
夢中でその5年の番長の腕に噛み付いたのでした。
気がつくと、そのK君が腕から真っ赤な血をポタポタ落としながら
大声で激しく泣いていました。
私は自分がしたことの重大さに震えました。
もう家へは帰れないと思いました。
また、この町にももういられないと思いました。
そして鞄を持ったまま国道へ出て西へ西へと歩いたのでした。
神戸の港へ出て瀬戸内海へ行く船を見つけてあの島へ
乗せて行ってもらえないかと頼んでみよう。
いじめが突然なくなった
結局、私は空腹のために気を失って国道で倒れ、
夜遅くパトカーで我が家へ運ばれたのでした。
母はじっと私の話を聞いて「そうわかったはこれからすぐにKさんの
家へ行こう!」きっぱり言って私の手を引いて大きな庭や門構えがある
近所のKさんの豪邸を訪ねました。
無論、私は謝罪のために連れていかれると思いしょんぼりついていきました。
しかし、K家の玄関でK君のお父さんに会うと、母は謝るどころか、大声で
「あなたの息子さんに話があります、すぐにここへ呼んで下さい!」
とどなり、出てきたK君にいきなり
「君はうちの子を泥棒と言ったそうですが、それは本当ですか?
なぜ何を証拠にこの子を泥棒といったのですか教えてください!」
と問い詰めたのです、そしてしどろもどろに
「ごめんなさい冗談で言うたんですと」
泣き出したK君にさらに
「では、白状しろと3つも歳下の子供の首を絞めたのも、
冗談だったと言うんですか?」
と訊いたので、結局K君はお父さんと並んで土下座をして
私に謝ってくれました。
そして驚いたことにK君のお父さんは
「この息子が二度とこういう過ちを犯さないように、
彼の髪の毛を切って坊主にします」
と言って私の目の前でジョキジョキとはさみでK君の髪を切ったのでした。
その上K君のお父さんからの連絡で、次の日の朝礼で校長先生が
いじめをやめるように全生徒に注意してくださったので私へのいじめも
ぷっつりとなくなったのでした。
その日、私は母から人間は貧富・年齢などとは関係なく、
全てが平等に生きる権利を持っているということを教えられたのです。
そして、その権利を守るためにはしっかりとした認識や勇気ある行動が
必要であることをK君のお父さんからも教えていただいたのでした
Posted by いとう茂 at
13:59
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