2019年04月06日
面白い話⑨
この前の続きです、福祉のことに関わってこなかった
人が、福祉の大切さを認識して、転職した話で、人が人を支える
そのことの意義や使命感が伝わってきました。
僕は番組が放送されること以上に何かを期待していた
わけではありませんでしたが、放送後しばらくして、
洋子さんが、ちょっとうれしい話を聞かせてくれました。
「あの番組ができる前は、自閉症のこだわりは絶対に
やめさせるべきだ、というのが世間の常識でした。
でも、あの放送の後、無理矢理やめさせることはなく、
その人の個性としてとらえるべきだという認識に変わって
きています」
番組制作の現場にいると、放送は作り手からの一方通行で、
一体何の役に立っているのか疑心暗鬼になることが
しばしばですが、この時ばかりは違いました。
「テレビって、捨てたもんじゃない」
この番組は、自閉症という、当時はほとんど知られていなかった
障害にスポットを当てたものでした。
それを正義と呼べるかどうかはわかりませんが、地味で目立たない
営みで視聴率が期待できなくても、放送で光を当てることで、
それまでの社会の価値観を揺るがすような波紋が広がることもある。
そんな手ごたえを感じた経験でした。
さらに「その人にとって幸せとは一体何なのか?」ということに
ついて深く考えさせられる体験にもなりました。
それは、ひとりよがりに想像するものではなく、当事者の声に
耳を傾け、寄り添わない限り、決してわからないのもだという
明確な答えを、僕に与えてくれたのです。
自閉症という言葉には、どうしても「心を閉ざしている」という
イメージがつきまといます。
取材をはじめる前は、僕にもそんな先入観がありました。
ところが徹之さんに接してみると、心を閉ざすどころか、
よく喋る、絵も上手、カラオケも大好きです。
コミュニケーションが苦手なだけで、意思疎通が全くできないわけでは
ありません。
挨拶をすれば、誰も真似ができないような大きな声で「おはよう
ございます!」と、一つひとつの音をハッキリと正確に発音します。
その一途な発声は、自然と周りに微笑みをもたらしていました。
休みの日には、一人でふらっと自転車旅にでかけ、ビールのつまみも
自分で器用にササっと料理します。
僕よりもはるかにアクティブで、いきいきと自立しているようにも
思えました。
そして気がつくと、徹之さんの暮らしぶりや生き様は、僕が勝手に
抱いていた思い込み(自閉症→障害→気の毒→不幸)を、
あっさりと消し去ったのです。
狭い世界で積み上げただけの自分勝手な常識を、きれいに
リセットしてもらったような気分でした。
それはすなわち「その人にとって何が幸せか」を判断する基準に
修正を迫る体験ともなったのです。
「自閉症の息子を抱えると、お母さんは不幸な一生を送ることに
なるんだろう」こんな決めつけも、何の意味も持たなくなります。
一般的な幸せの形とは一味も二味も違いますが、息子が公務員
という安定した仕事に就き、地域の支えもあってずっと親子が
一緒にいられる。
洋子さんは今、自閉症の息子と過ごす日々を「幸せ」だと感じて
います。
そして息子の徹之さんについても「本当に幸せな人生を歩んでいる」
と思っています。
僕は教えられました。
「幸せとは極めて個人的なものだから、ほかの誰かの幸せや不幸せを
自分勝手に判断することは戒めなければならない」
「誰かの幸せを支えることが正義だとするならば、それを実行する
ためには、まずその人の真の声に耳を傾けようとする姿勢が
欠かせない。
そうしなければ、何が正義なのかを正しく判断することはできない」
〈ヒーロー対悪者〉という単純な構図でしか理解できなかった
子どもの頃の「正義が、ようやく一皮むけたようでした、徹之さんと
その家族を通して学んだこの教訓は、今も僕の仕事を支える
大切な原点となっています。
人が、福祉の大切さを認識して、転職した話で、人が人を支える
そのことの意義や使命感が伝わってきました。
僕は番組が放送されること以上に何かを期待していた
わけではありませんでしたが、放送後しばらくして、
洋子さんが、ちょっとうれしい話を聞かせてくれました。
「あの番組ができる前は、自閉症のこだわりは絶対に
やめさせるべきだ、というのが世間の常識でした。
でも、あの放送の後、無理矢理やめさせることはなく、
その人の個性としてとらえるべきだという認識に変わって
きています」
番組制作の現場にいると、放送は作り手からの一方通行で、
一体何の役に立っているのか疑心暗鬼になることが
しばしばですが、この時ばかりは違いました。
「テレビって、捨てたもんじゃない」
この番組は、自閉症という、当時はほとんど知られていなかった
障害にスポットを当てたものでした。
それを正義と呼べるかどうかはわかりませんが、地味で目立たない
営みで視聴率が期待できなくても、放送で光を当てることで、
それまでの社会の価値観を揺るがすような波紋が広がることもある。
そんな手ごたえを感じた経験でした。
さらに「その人にとって幸せとは一体何なのか?」ということに
ついて深く考えさせられる体験にもなりました。
それは、ひとりよがりに想像するものではなく、当事者の声に
耳を傾け、寄り添わない限り、決してわからないのもだという
明確な答えを、僕に与えてくれたのです。
自閉症という言葉には、どうしても「心を閉ざしている」という
イメージがつきまといます。
取材をはじめる前は、僕にもそんな先入観がありました。
ところが徹之さんに接してみると、心を閉ざすどころか、
よく喋る、絵も上手、カラオケも大好きです。
コミュニケーションが苦手なだけで、意思疎通が全くできないわけでは
ありません。
挨拶をすれば、誰も真似ができないような大きな声で「おはよう
ございます!」と、一つひとつの音をハッキリと正確に発音します。
その一途な発声は、自然と周りに微笑みをもたらしていました。
休みの日には、一人でふらっと自転車旅にでかけ、ビールのつまみも
自分で器用にササっと料理します。
僕よりもはるかにアクティブで、いきいきと自立しているようにも
思えました。
そして気がつくと、徹之さんの暮らしぶりや生き様は、僕が勝手に
抱いていた思い込み(自閉症→障害→気の毒→不幸)を、
あっさりと消し去ったのです。
狭い世界で積み上げただけの自分勝手な常識を、きれいに
リセットしてもらったような気分でした。
それはすなわち「その人にとって何が幸せか」を判断する基準に
修正を迫る体験ともなったのです。
「自閉症の息子を抱えると、お母さんは不幸な一生を送ることに
なるんだろう」こんな決めつけも、何の意味も持たなくなります。
一般的な幸せの形とは一味も二味も違いますが、息子が公務員
という安定した仕事に就き、地域の支えもあってずっと親子が
一緒にいられる。
洋子さんは今、自閉症の息子と過ごす日々を「幸せ」だと感じて
います。
そして息子の徹之さんについても「本当に幸せな人生を歩んでいる」
と思っています。
僕は教えられました。
「幸せとは極めて個人的なものだから、ほかの誰かの幸せや不幸せを
自分勝手に判断することは戒めなければならない」
「誰かの幸せを支えることが正義だとするならば、それを実行する
ためには、まずその人の真の声に耳を傾けようとする姿勢が
欠かせない。
そうしなければ、何が正義なのかを正しく判断することはできない」
〈ヒーロー対悪者〉という単純な構図でしか理解できなかった
子どもの頃の「正義が、ようやく一皮むけたようでした、徹之さんと
その家族を通して学んだこの教訓は、今も僕の仕事を支える
大切な原点となっています。
Posted by いとう茂 at
09:55
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