2024年03月26日

日曜日の読書より

明治生まれの人の本を読んでいると、難しい言葉を使っていたと感じます。
それ以前の人たちの文章は古典の世界、辞書を片手に読んでも意味が分からないものがあります。
「天災と日本人」という文庫本を読んでいます、著者は寺田寅彦で明治11年の生まれ、これを山折哲雄が編集したものですが、1ページを読むのにも時間がかかります。
簡単な文字でも「陸続」、文章は陸続と連なり、ですので調べてみる次々と連なり続くさまとなっており、推測どおりでしたが、「薨去」これは(こうきょ)と読みますが、位の人が亡くなるという意味でした。
こちらも文脈から想像していた通りですが、現在では見たこともない単語でした。
「れんかん」と読む文字は「聯」と「関」でないとパソコンは変換してくれません、意味は互いにかかわり合っていることで、現在は関連という表現ばかりです。
「痼疾」(こしつ)と読みますが、容易に治らないで、長い間悩まされている病気という意味だそうです。
時々耳にする「しかつめらしい」漢字変換すると「鹿爪らしい」・・・なんで鹿の爪なん・・・新しい疑問ですが・・・当て字ということでした。
もっともらしいと、意味は何となく分かっていましたが、当て字だとは知らなかったので、何かいわれがあるのかと勘ぐってしまいました。
こんな調子で単語で止まってしまいますので、文章の内容を再度、再再度確認で1時間かけて20ページから25ページしか進みません。
しかし、各駅停車ではありませんが、こうした読書もそれなりに楽しいもので、ぼちぼち読んでいこうと考えています。
  
Posted by いとう茂 at 10:08Comments(0)

2024年03月25日

「原爆の図」より⑩

丸木位里さんと丸木俊さんの作品の説明文の紹介の続きです。
署名 第十部
原爆やめよ、
水爆やめよ、
戦争やめよ。
東京杉並のお母さんたちの呼び声は日本中にひろがりました。
こどもも、お母さんもお父さんも年よりも、ありとあらゆる職場の人が署名しました。
民衆の声なき声が声となり、このように平和を求めるたくさんの署名が集まったのは、はじめてのことでした。

母子像 第十一部
家の下敷きとなり、燃えさかる中を、親は子を捨て、子は親を捨て、夫は妻を捨て、妻は夫を捨てて逃げまどわなければなりませんでした。
それがほんとうの原爆の時の姿なのです。
だが、そうした中で不思議なことに母親が子供をしっかりと抱いて、母は死んでいるのに子供が生きているという、そんな姿をたくさん見ました。
  
Posted by いとう茂 at 20:55Comments(0)

2024年03月24日

「原爆の図」より⑨

丸木位里さんと丸木俊さんの作品の説明文の紹介の続きです。
焼津 第九部
一九四五年、ひろしまに人類はじめて原爆が投下されました。
続いて長崎にもう一発。
そうして、ビキニ環礁で人類初の水素爆弾が爆発しました。
久保山愛吉さんが亡くなりました。
日本人は三度、原爆水爆の犠牲となったのです。
後記(一九三八年五月)
日本人ばかりではありません。
ビキニ環礁の近くのミクロネシアの人びとは水爆の死の灰をかぶりました。
島全体が汚染されてしまいました。
島を追われた人びとが、生まれ故郷ビキニへ帰った時、残留放射能を受けてガンや白血病で倒れ、傷つき、今も苦しんでいます。
焼津とビキニ。
それは宿命の兄弟となったのです。
  
Posted by いとう茂 at 11:09Comments(0)

2024年03月23日

3月23日の記事

遠くを走る電車は客車なのか、貨物なのか
どこまで行くのだろう
誰を乗せているのか、何を運んでいるのか
宮尾登美子の夜汽車は切ない物語だったなぁ、そんなことを思い出させる
乗客は何を思っているのだろう
可愛い子どもが待ってるから早く家に帰りたいなぁ、家に帰っても誰もいないし、このまま見知らぬ土地に行けたらなぁ
仕事で疲れた窓には体を横にするだけの家、会話のない夫婦だけの家、ペットだけが話し相手の旦那、旦那よりもペット優先の妻、そんな家もあるだろう
ガタンゴトン ガタンゴトンの響きは悪魔の叫び声か、天使のささやきか
駅に停まるたびに人が乗り降りし、やがてみんな降りてしまう
空になった電車の中には、いくつのため息があるのだろう、いくつの笑顔があるのだろう
辛いことや苦しいことは全部電車の中に捨てて行ければいいのに
ガタンゴトン ガタンゴトンそんなことはお構いなしに、電車は明日も走り続ける ガタンゴトン ガタンゴトン
  
Posted by いとう茂 at 10:26Comments(0)

2024年03月22日

「原爆の図」より⑧

丸木位里さんと丸木俊さんの作品の説明文の紹介の続きです。
救出 第八部
いつまでも火は燃えつづけておりました。
ようやく身よりの人を捜しては連れて帰りました。
けれど、途中でこときれていきました。
配給があるというので行列がつづきました。
乾パンを抱いたまま、娘は死んでいきました。
わたくしたちの妹のむこの両親は、二人ともガラスの破片が全身にささっていました。
足首もももも、同じ太さにはれていました。
わたしたちのところに避難していましたが、長男のところへ連れて行くことになりました。
荷車にのせて引いて行きました。
爆心地を通って海田市まで行きました。
しとしと、雨の降る日でした。
原爆のあと、広島ではよく雨が降りました。
八月というのに寒いような日が続きました。
本当は、「かあさんごめんなさい」といって逃げてきたんですと、泣いている人がいます。
妻は夫を、夫は妻を、親は子を捨てて逃げまどわなければなりませんでした。
救出がはじまったのはしばらくしてからのことです。
  
Posted by いとう茂 at 11:58Comments(0)