2015年01月21日

市議会議長会定例研修会



昨日は長浜市の浅井文化ホールで市議会議長会主催の
研修会がありました。
県下の市議会議員と議会事務局職員を合わせて
200名を超える参加者がありました。

名神の事故で到着が遅れ予定の14時が30分遅れで開会しました。
テーマは「議会基本条例に見る議会改革の実践と課題」でした。
議会基本条例については昨年、2泊3日の研修を受講しましたので
聞いたことがある話が多かったのですが、改めて話を聞き
思い出した部分もありそれはそれで意義がありました。

現在、県下13市のうち議会基本条例が制定されていないのは
大津市と高島市だけです。
大津市でもこの2月通常会議に議員提案で上程します。
大津市の制定が遅れているのは議会活性化が遅れているのではなく、
活性化に向けて通年議会、地方議会では全国初となる業務継続計画
議会BCPの策定、議場に大型スクリーンの導入や誰が議案に賛成、
反対したか一目でわかるように電子採決の導入、苦労はしていますが
ペーパーレスに向けてタブレットの導入等、活性化に向けて様々な
取り組みを行っています。

その成果が一昨年のマニフェスト大賞のグランプリ、これは地方議会の
頂点の証ですし、昨年も審査委員特別賞の受賞と外部から高い評価を
受けています。
昨日も、講演の中で大津市議会は全国的にも注目される改革先行型の
代表であると評されました、他の議会が基本条例に盛り込んだものの
実際、機能していない部分があるのと違い、着実にステップアップをして
それらを条例に盛り込んでいく、この事が議員各位の自覚にもつながりますし、
さらなる高み、市民への透明性の拡大につながります。

今日の比良山は雪をかぶった姿が少しぼんやりして幻想的な
風景でした、物事にもすべてはっきりさせてよいものと少しぼんやり
させておいた方が良いものがあるように思います。
過ぎたるは及ばざるがごとし・・・・・でしょうか。
  
Posted by いとう茂 at 12:57Comments(0)

2015年01月20日

木にまつわる言葉

議員の控え室からは京阪の線路に沿って植えられたケヤキと
イチョウの木が正面に見え、右には大津商業の桜が見えます。
春は満開の桜、初夏には若い息吹を感じる若葉、夏には
濃い緑葉、秋には燃えるような黄葉、紅葉、冬は凛とした裸木。

四季折々に目を楽しませてくれます。

「木」で思い出す言葉を考えると・・・・。

「倉廩実つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」
管子の中におさめられている言葉です、管仲と言う人の言葉だと言われて
いますが、管子のすべてを管仲が書いたものではないという説もあり
定かではありません。
管仲は孔子よりも100年以上前の人だったと思います。
孔子は性善説ですが、管仲は老子や荘子と同じく性悪説を唱えた人です。
倉廩(そうりん)とは食べ物を入れておく倉のことで、一般的には
衣食足りて礼節を知る、と言う方がピンとくるかもしれません。

管仲と仲の良かった幼馴染に鮑淑牙(ほうしゅくが)と言う人がいます。
二人の仲の良かったことのたとえで「管鮑の交わり」と言う言葉もあります、
これは、刎頚の友、断金の交わり、金襴の契り、竹馬の友、莫逆の友・・・・・
それらと同義語ですがあまり耳にしません。

仲の良かった二人が、ある時に敵味方に分かれて戦をします、
勝ったのは管仲側で、鮑淑牙の才能と友情を重んじた管仲が
宰相に鮑淑牙の命乞いをして、事なきを得、その後、鮑淑牙は
宰相にまで上り詰めますが管仲はその下で鮑淑牙を支えたと言います。
そうした二人を見て巷の人が管鮑の交わりと言ったようです。

ちなみに、管仲の家は裕福でしたが鮑淑牙の家は母は一人の
貧乏な家だったそうです。
その管仲の言葉に。
「一年の計は穀を樹(う)うるに如(し)くは莫(な)く、
  十年の計は木を樹うるに如くは莫く、
  終身の計は人を樹うるに如くは莫し」 
と言うものがあります、私はこの計を結果と勝手に理解しています。
1年で結果を出すなら穀物を植えなさい、10年で結果を出すなら
木を植えなさい、人づくりは一生と言う長い時間がかかる。

その他に、昔、学校で習ったルターの言葉で
「たとえ明日、世界が滅びようとも
私は今日リンゴの木を植える」
というのもありました、これも独訳ですが、自分のやるべきことは
どんな時でもやりぬくと解釈しています。

もう一つ、同じような意味ですが、昔に読んだ本で「木を植えた人」
舞台は外国だったと思います、アメリカではなくヨーロッパだった・・・・?
荒れ地を開墾して黙々と樫だったかドングリだったかを植え続ける人の話でした。
本棚にあるか探して見つかればもう一度読み返してみようかと・・・・・。

今日は、これから長浜に行ってきます、滋賀県の議長会主催の
研修会です、大津市議会もほぼ全員出席です。
昨夜は商工会議所の正副部会長、関係議員の会合の後
懇親会がありましたが、二次会の誘いも断り8時過ぎに帰宅しました。
疲れていたのか珍しく10時過ぎには夢の中でした。
いつもは睡眠時間が5時間ほどですが昨夜は8時間以上、
朝6時30分までぐっすり寝て、緑のお爺さんも快調でした。

昨日、献血に行って採血の間に日赤の看護師さんに前々回と
前回の献血者の数を尋ねると、前々回は50人くらいだったのが
前回は80人以上だったということでした。
これは9月の通常会議で職員の職務専念義務から献血が
はずされ、それまでは時間休をとって献血に行っていたのが
上司の許可だけで協力できるようになったためで、多くの
職員が献血に協力してくれています。

日常の業務のほかに見えない所で献血に協力して
人助けをする、当然と言う人もあるかもしれませんが、
私は立派なことだと思います。
特に若者の献血離れが問題になっていますので、
定期的に献血に協力する習慣を身に付けていただければと思います。

  
Posted by いとう茂 at 11:09Comments(0)

2015年01月19日

出演が・・・・・。

和太鼓の出演依頼が増えてきました。
毎週水曜日に市民センターで練習をしています。
元はOB会だったのですが、現役メンバーが昨年9月に解散してしまい
OB会が中心になったというか呼び戻された感じです。

もちろん現役を退いた人間ばかりですが、みんなは
現役よりも自分たちの方がうまいと思って・・・・・いるはず。
そんなわけで「石鹿太鼓保存会」と名称も改めました。
自分たちが20年以上前に創作太鼓として設立し、
活動を続けて地域にもなじんだ感があり、今回、
保存会として継承していくことになりました。

私は平成12年に現役を退き、平成22年に
OB会に入り練習をしてきましたが一番出席率の悪い
会員です。
10年のブランクは長く体力の衰えは別にしても太鼓の
勘が当時には戻りません、出演の場が少ないことも
関係しているのかもしれません。

メンバーもOBばかり5名だったのが新人3名が入会して
8名に増えました。
まったく太鼓の経験のない人も入っています。
もっとも、最初はみんな未経験者です、私も最初は
バチをブラブラさせて遠巻きに太鼓を見ていました。
リズムが合わない、遅れる、速くなるそんなことは当たり前。

10代から60代まで幅広い年代で練習をしています。
これまでOB会での出演は5年前と昨年のぜぜ夏まつり
だけでしたが現役が解散したせいで、1月28日は琵琶湖ホテル、
2月11日にピアザ淡海で「外国人による日本語スピーチ大会」のオープニング、
3月14日の膳所火まつり、4月5日の膳所さくらまつりと
出演依頼があります。

設立時にユニフォームも作ったのですが現役に引き継ぎましたので
昨年、半天だけ作りました。
私たちが現役の頃は1ヶ月に2・3回出演があり練習も
週2回でした。
それに比べると出演回数は激減ですがボチボチが
一番です、余り多いと体がついていきませんし、
時間も調整がつきにくくなります、設立当初は商店街の
メンバー中心でしたので自分で時間調整ができましたが
会社員、公務員、自営、パート、学生と多様なメンバーですので
時間の調整が重要になります。

演奏回数が増えるたびに勘が戻るといいのですが・・・・・。

午前中は、膳所公園の水道が出ませんでしたので
先週に修理をお願いしたところ、昨日市民の方から
水が出るようになったと連絡がありましたので、
公園緑地課にお礼に行き、公園の桜の植え替えについて
話をしてきました、管理は協会が行っていますので
改めてそちらに話に行くことを伝えて帰ってきました。

その後、献血に行ってきました。
もしかすると今回はダメかも、と言う不安がありました。
血圧ではなく血液の比重が軽いんではないかというものです。
若いころから比重は軽い方でしたので、軽いなりに安定しているのか
赤血球の数と大きさも平均ギリギリでここまでずっときました。

左手で検査を受け、待つことしばし、「大丈夫です」
そう言っていただき無事400の採血をしてきました。
これで95回目、あと5回で100回ですが、1年で3回ですので、
まだ2年弱かかります。
何んとか健康で協力したいと思います。

午後からは商工会議所で会議です。
今年度の残りの事業の確認と次年度に向けて方向性の議論があります。
その後は、1年に1度の懇親会です。
早い時間からですので、オーバーペースにはならないと思いますが、
飲み過ぎには注意・・・・・です。




  
Posted by いとう茂 at 12:20Comments(0)

2015年01月18日

抜粋のつづり⑥

 「1本を踏み出して」

1ヶ月後に結婚式をあげたいんです、そんなお電話をいただいたのは
今から10年前,私がウェディングプランナーになって、
まだ2年目の事でした。
新婦のお父様は末期ガンで余命1ヵ月、お母様が居られず、
ご自分は男手1つで育ててくれたお父様にどうしても
花嫁姿を見せてあげたいとの事でした。

結婚式は通常、半年から1年かけて準備をするのですが、
私は事情を伺い絶対に花嫁姿を見ていただきましょうと、
お約束してすぐ準備にかかりました。
ところが翌日、新婦はその予約をキャンセルされたのです。

お医者様から改めてお話があり、お父様はあと2週間位しか
持たないと言われたそうなのです。
「1か月では間に合わないのであきらめようと思います」
受話器を置いたあと釈然としない思いが胸を覆いました。
本当にこれでいいのだろうか、私はもともと情に薄いタイプの人間でした。
それまで他人と、それまで人と深く関わり心の底から感動したり
嬉しい涙を流したりした経験は皆無でした。

当時、社会的にほとんど認知されていなかったウェディングプランナーと
言う仕事を選んだのはこの仕事を通じて有賀さんという名前を呼ばれて
感謝されるような働き方をしたいと言う思いがあったからです。

考えた末、私はその新婦に病室での式を提案させていただきました。
人の命が関わっており、これが私にはとても気の重い仕事でした。
けれども人としてぜひこの仕事をお引き受けしたい、
ここで何かをすれば何かが変わるかもしれない、
そう考えて社長に直訴し、新婦もその提案を大変喜んでくださったのです。

ところが非情にもお父様は挙式を翌日に控えて天に召されました。
どうして神様はあと一日待ってくれなかったのだろう、
悔しい思いとともに、後悔の念が胸を突き上げてきました。
余計なことをして皆様を傷つけてしまった。
なんとお詫び申し上げるべきだろう・・・・・。

ご連絡をためらっている所へ新婦から思いのほか明るい声で電話がかかってきました。
葬儀は無事終わり入籍も済ませたので真っ先に私に報告したかったとおっしゃるのです。
「父親に花嫁姿を見せられませんでしたが、おかげで式のために集まった
皆さんに見守られて父は逝くことができました。
きっかけをいただいた有賀さんは、私たちの恩人です」
初めて自分の意思で1歩踏み出した結果、
思いがけず頂いた感謝の言葉。
私は頬を濡らして受話器を握りしめました。

就職した12年前は、結婚式とはこういうものと言う固定観念がまだ根強く残っていました。
型通りに進行されるプログラムの中で普段は個性的な新郎新婦も、
借りてきた猫のようにおとなしくなり式場で流される涙も想定内の物でしかありませんでした。
せっかく高いお金を払っていただくのだからもっと楽しく盛り上がるものにしたい。
素人の強みからケーキカットの場所や順番など、
これまでの決まり事を次々と変え、時には事前の打ち合わせにない
サプライズの要素も取り入れ、お客様から大きな反響をいただきました。

もちろん、ただ奇をてらえば良いというものではありません。
新郎新婦にとって意味があり喜んでいただけるものでなければ
逆にクレームとなります、そのヒントを探るため打ち合わせの段階から
新郎新婦のちょっとした言葉や表情の動きにも神経をめぐらせるのです。
気がつけば、これまでに関わらせていただいた式は1,000組以上にもなり
印象的なエピソードをこのほど自著「大切な人に会いたくなる結婚式の物語」に綴りました。

けれどもこのウェディングプランナーと言う仕事はいくら経験を積んでも
ベテランになれない仕事だと実感しています。
お二人の歩みや家ご家族との関わり方など、どの組をとっても同じケースはないからです。

良いアイディアが浮かばず逃げ出したくなることもしばしばです。
それでもこの仕事を続けているのは、人見知りで深い人間関係の築けなかった私が、
この仕事を通して人様の人生に親身に関われるまでに成長できたこと、
そして式が終わるたびに「ありがとう」の言葉をいただけるからです。

冒頭にご紹介した新婦については、喪が明けた後に改めて式のお手伝いを
させていただくことになりました。
式は天国のお父様にも見ていただけるようガーデンで行うことになりましたが、
当日はあいにくの雨。
浮かない表情の新郎新婦の傍で私たちスタッフは準備を進めつつどうか晴れますようにと
心の中で懸命に祈りました、するとどうでしょう予定の15分前に
雨はピタリとやみ、式は無事取り行われたのです。
「奇跡がおきましたね」
新郎新婦にそうお声掛けした時、お二人からいただいた言葉に思わず涙があふれました。
「いえ、私たちにとっての奇跡は有賀さんに出会えた事です」
仕事で悩む時、迷う時、あの感動が今も私を支え、
後押ししてくれます。
これから手を携えて人生を歩んでいかれる新郎新婦のために
「ありがとう」と喜んでいただける思い出に残るひとときを創ってまいりたいと思います。

両親が健在の中、めでたく、下の娘も結婚しました。
時々、顔を見せますが元気で仲良くやっているようで
安心しています。
親の責任は果たしたつもりで、あとは自分たちで
独立した家庭を築いてもらえたらと思います。

この土日は何かと予定が詰まっています。
明日からも会議が詰まっています、明日は採血車が
市役所に来ますので午前中に献血を済ませて
午後からは商工会議所の正副部会長と関係議員の会合、
火曜日は長浜で議員研修会、木曜日は北消防署の視察と
教育厚生委常任委員会と総務常任委員会の合同審査会、
金曜日は政策検討会議があります。
日曜日は午前中は近江大橋の上にいます。
レイクマラソンの立哨です、どうぞ暖かい日でありますように。
午後からは月例の勉強会です。

2月通常会議を控えていますが何かと多忙です。

  
Posted by いとう茂 at 14:22Comments(0)

2015年01月17日

私の「あの日」から20年

人生には「あの日」と言えばわかる日があります。
個人的にはさまざまな「あの日」があるかもしれませんが、
国民の多くが共有できる「あの日」は20世紀なら8月15日。
21世紀は1月17日と3月11日ではないでしょうか。

大津でも揺れました、生まれて初めてと言ってもいい
揺れかたが震度5でした。
神戸や淡路島では震度7から6強。

家の庭には4つの灯篭がありましたが、あの地震で
一番大きな灯篭だけ倒れました。
2メートル以上ある灯篭は台座を入れて4つに分かれていましたが
台座だけ残し庭に転がっていました。
今も庭に転がっています、歩くのに邪魔にならないように
少し位置は変えましたが。

予兆だったと言えばそうかもしれないし、偶然と言えば
そうかもしれません、大震災の翌日に親父は入院しました。
最後の入院でした、4月6日に亡くなるまで外泊もなく
ずっと病院のベットの上にいました。

今日は国民にとって「あの日」から20年です、
そして、明日は私にとって「あの日」から20年です。
今から9年前に親父を思って書きました。

20年目に親父を思って書こうと思いましたが
今は心にしまっておきます。

「あなた」

あなたが逝って11度目の春がやってきます。
阪神淡路大震災の翌日あなたは最後の入院をしました。
あれがいったい何度目の入院だったのか家族も忘れてしまうほど
入退院の繰り返しでした。

あなたの命の灯が消えるかもしれない、
そのことを最初に医師から告げられたのは、まだ17・ 8の頃でした。
病名は不整脈。
医師は、止まったら終わりやからね、
ご家族に連絡しても間に合いませんから覚悟しといてください。
事務的にそう告げました。

その次は肝硬変、これはすぐに命にどうこうないとのことで、
健康のバロメーターは酒が飲めるか否かでした。
あの頃は、よくあなたに酒を進めたのを覚えています。
それから胃がんでした。
それも胃の窪んだところで心臓の悪いあなたは手術もできず
レーザーで焼くにしても胃壁に穴が開いたらいけないからと
塩水で組織を浮かせて焼きました。

ガンの組織は完全に切除できなかった、あなたの体力を考えると、
これが限界と、お袋と2人で医師から説明を受けました。
それから10年ぐらいだったでしょうか、あなたの命があったのは。

でも、あの10年は入退院はあったものの不整脈や胃がんも
影をひそめ糖尿病と肝硬変が主な病気でした。
あなたの人生の晩年で右肩下がりとは言え少しは安定した時でした。
しかし、今考えてみるとあなたの体力が衰えガンの進行が遅かっただけかもしれません、
その証にガンは進行を止めずに肝硬変から肝臓がんへと
移行していったのです。

そんな中、昭和63年の春だったと思います、私が33歳の時でした。
「今度、選挙があったら商店街の理事長になるかもしれん。」
入院するあなたを送って行く時そう言ったら、
「皆がそう思ってくれるんやったら、なったらええ」
あの一言が背中を押してくれました。

明くる年、小学校の会長になった時、あなたは何も言いませんでした。
私の人生の中で1番苦しく辛い1年でした。
退院した時は孫を可愛がり、決してうまいとは言えない運転で
いろんなところに連れて行ってました。
ずっと中古の車を乗り継いできてチェリーとブルーバードと
2台続きの新車でブルーバードが来た時、
「これが最後の車やな」と寂しそうに呟いていたのを覚えています。

平成7年の3月でした季節外れのテッサを夕食に持っていったとき
あなたは1口だけ食べ「もうええわ」と箸を付けませんでした。
24時間の点滴が始まったのもその頃でした。

ずっと泊まり込みのお袋が風呂に入るために交代した時
「おしっこをするか」そう尋ねるとあなたは軽くうなずき
ベットから身を起こしました。
細くなった足で立ったもののパジャマのズボンが
下しづらくて私がサルマタを下して、あなたの先っちよを
つまんで尿瓶に向けると気持ちよさそうにおしっこをしました。
後で、お袋にそのことを言うと驚いていました。

そして、いよいよ4月6日、お袋と弟と私が病室にいた午後6時ごろ
「もう帰ってや大丈夫やで」
右を向いて3人にそう言った後、
「上を向くわ」それが最後の言葉でした。

家族3人に看取られて大往生でした。
今年生きていたら80歳、街で同じ年代の人を見ると羨ましくなります。
振り返ると11年と言う歳月は長くもあり短くもありました。
もう1年したら13回忌です。

あなたが元気でいたら今の私を見てどう言うでしょう。
できることならずっとあなたの中でデキの悪い息子でいたかった。

お父ちゃん
  
Posted by いとう茂 at 17:01Comments(0)