2015年01月26日

体は一つ、行事は二つ

いわゆるダブルブッキングです。
昨日の日曜日は午前も午後もダブルブッキングでした。
午前中は膳所学区の防災訓練とレイクサイドマラソン。
普通なら防災訓練に参加となりますが、私がスポーツ推進委員に
就任する際の母体は大津市の陸協です、各学区推薦と競技種目の団体からの
推薦でスポーツ推進委員会は構成されています。

レイクサイドマラソンの主催は滋賀県、大津市等ですが、共催に
体育協会、ここに陸協も所属していますし、支援に滋賀県陸上競技協会が
名前を連ねており、結局こちらを選択しました。

8時になぎさ公園で受付、家から歩いて20分弱です。
立哨が仕事でハーフマラソンは近江大橋を渡る前に折り返して
大津港まで走ります、折り返し地点はスタートから1キロ余り、
1000人を超えるランナーはそれほどバラケずに団子で
走ってきます、折り返し地点の道幅は4Mほど、かなり危険な状態で
立哨が何名も手前から注意を促し事なきを得ましたが、
大津の体育協会ではフルマラソンの実施を視野に入れて
検討中ですが、今回は1000余りでしたがフルマラソンになると
5000名以上の参加が考えられ、現状のコースでは大幅な改善策が
必要だと思います。

折り返しがすむと次は近江大橋の上でランナーを待ちました。
8キロ地点ですので折り返したランナーの先頭は20分余りで橋を上ってきます。
ほぼ橋の一番高い部分で残り100Mほどで下りに入るあたりで
背中を車道側に向けて立ち、通行する人に注意をするよう
呼びかけたり、ランナーに声をかけたり、結構忙しくしていました。

膳所の人も何人か参加されており向こうから声を掛けてもらい
思わず声援を送りました。
ハーフマラソンの最後尾あたりは1時間遅れの13,5キロと
一緒になり混雑していました、どちらのコースも1000人余りで
合計で2000人以上が40分ほど掛けて無事に通過しました。

マラソンが終わり膳所市民センターの防災訓練に立ち寄り
役員や地域の人にあいさつを済ませ帰宅した次第です。

午後も会議と勉強会、どちらもスタートが1時30分、
会議が3時前に終わり勉強会には遅れて出席してきました。
次回の勉強会は2月は22日ですが、30分スピーチの順番が回ってきます。
さぁさぁ、何を話そうか。
  
Posted by いとう茂 at 12:19Comments(0)

2015年01月25日

抜粋のつづり⑦

「幸せの鐘を鳴らそう」

1人の少年のために、1人の少年のあの笑顔を取り戻すために、
私は保護司になりました。
あれは長男がまだ小学1年生の時でした、私は嫁ぎ先の割烹料理店の
切り盛りに慌ただしい毎日を送っていましたが、
鍵っ子だった自分と同じ寂しさを、我が子には味わわせたくないと思い、
午後には一時帰宅し、おやつを作って迎えていました。

せっかく作るのなら、と息子の友だちにも振る舞うようになり、
いつしか我が家は大勢の子供たちの賑やかな遊び場となりました。
私は彼らが心底愛おしく、うちに来る子は全て自分の子のつもりで接していました。
その中に1人、他の子と遊ばずいつも私のそばから離れない少年がいました。

母親が病のため愛情に飢えていたのでした。
母親のぬくもりを知ってほしいと思い、とりわけ彼には愛情を注いでいました。
そんなある日、事件がおきました。
少年が息子と一緒に遊びに行った友だちの家から、
マスコット人形を盗ったと言うのです。
友だちの弟が大切にしていた人形だったため、母親まで巻き込んだ騒ぎになり、
私のもとに相談にみえたのです。
私は日ごろから子ども達にうちの子になるなら、
ルールを守ろうねと言い聞かせていました。

嘘はつかない、人に迷惑をかけない等々、
自分が親から言われてきたことばかりです。
「はい」と元気に答える彼らの中でも、
とりわけ嬉しそうに頷いていたのがその少年でした。
それだけに彼が人のものを盗ったとは信じられませんでした。
しかし、なくなった人形を少年の家で見た、と息子が言うのです。

家庭の事情で玩具も満足に買ってもらえない少年。
盗ったのではなく、きっと欲しかったのだ。
私はそう考え、とにかく一緒に謝ろうと言いました。
ところが彼はいくら言い聞かせても謝ろうとしません。
裏切られた気持ちになった私は、もう、うちには二度と来ないでと強い口調で言ってしまいました。

2週間くらいたった頃、布団を干していると門のあたりに小さな人影がありました。
チャイムを押そうとしてためらい行ったり来たりしているのはあの少年でした。
彼がそうして毎日、うちに立ち寄っていることを息子から聞き、
私は思わず駆け寄って抱きしめました。

少年が「ごめんね」と繰り返しながらもらした言葉に
私は頭をぶたれたようなショックを受けました
「あれは盗ったんじゃなくてもらったんだ・・・・」
あの時、なぜもっと事情を聞いてあげなかったのだろう。
大好きな人から謝罪を強要され、幼い少年の心はどんなに傷ついたことだろう。

その後、少年は再び我が家に遊びに来るようになりましたが、
家庭のことで心を荒ませ、いつしか顔を見せなくなりました。
中学へ進学してからは家の前を通るたびに髪の色や服装が奇抜になっていき、
声をかけても返事すらこなくなりました。

そして、とうとう鑑別所に送られる身となったのです。
もちろん直接の原因ではありませんが、あの無垢な彼の心を傷つけた
後悔の念は、私の中にくすぶり続けていました。

彼に償いがしたい、もう一度彼の笑顔に会いたい、ずっとそう思い続けていたので
保護司のお話をいただいた時は二つ返事でお引き受けしたのです。
その時からたくさんの少年たちに出会ってきました、
心が痛むのは彼らのほとんどが生まれてこの方、
腹から笑ったことがないと言う事実です。

みんな幸せが欲しくて、欲しくて、懸命に手を伸ばしているのに
どこかで歯車が狂ってしまっている。
彼らは自分のことをカスとかゴミだと言いますが、私は彼らを無条件で好きになります。
「君が大事なんだ、可愛くて、可愛くて仕方ないんだよ」
と言うと、涙をポロポロ流します。
非行を犯して一時的に愉快になっても、それは真意ではなく
その後ずっと罪の意識でビクビクしながら過ごすことになる。

人に感謝される行いを積み重ねてこそ本当の幸せを手にできると
いつも説いています。

あの少年が保護観察になると聞いた時、
私は監察官の方に頼んで彼を担当させてもらいました。

嫌がっていた彼は、私が彼のために保護司になったと告げると驚きの表情を浮かべました。
「もう一度君の笑顔を見たいんだ。一緒に幸せを探そう」
彼は声をあげて泣きました。

今は寿司職人として独立を目指して頑張っています、
ようやく軍艦が握れるようになった頃、彼は私を、お店に招待してくれました。

カウンター越しに彼の笑顔を見た瞬間、私は思わず胸がいっぱいになりました。
目頭を押さえながら食べた彼のお寿司は世界一の味がしました。

関わった少年たちの事は片時も頭から離れません、
観察期間が過ぎても慕ってくる彼らから、私は与えた以上の喜びを与えられ、
抱えきれない位の心の財産をいただいています。

その後、家族がなかったり家族崩壊の中、帰る家もなく希望を失った少年を
「おかえり」と迎えてあげる家を作りたいと考え、
私は立ち直り支援の「少年の家」「ロージーベル」を立ち上げました。
平成23年にNPO法人に認定、現在、少年たちが日々笑いの中、生活を共にしています。

人は誰でも心の中に幸せの鐘を持っています、1人がその鐘を鳴らすと
周りの鐘も共鳴して幸せ色に変わっていくのです。

その鐘の音が共鳴しあい周りをどんどん幸せ色に変えていけるよう
今日も私は少年たちに一緒に幸せの鐘を鳴らそうよ、と呼びかけ続けています、
そう、人は幸せになるために生まれてきたのですから。


この方が保護司になられた動機に頭が下がります。
私の場合は人から勧められてですが、志と言うものはありませんでした。
母方の祖父が保護司でしたが私が小学校2年の時に急逝し、
祖父が保護司であった頃のことは全く知りません、
昔、何かの小説で保護司のことを題材にしたものを読んだことがありましたが、
会社を訪問するにしても保護観察対象者だと他の社員に分からないよう、
また自身が保護司であるということも隠して面談に行くと言うくだりがあり、
大変な仕事だと感じていました。

母親は自分の祖父が保護司だったこともあり反対はしませんでした。
75歳の定年まであと15年あります、ケースによっては5年以上かかる
場合もありますが、私のような者の力で、一人の人間が立ち直ってくれたら、
幸せですし、立ち直りのお手伝いができるよう、人間力を
しっかりつけなければと心したいと思います。






  
Posted by いとう茂 at 12:28Comments(0)

2015年01月24日

支えられ,励まされ・・・・・。



平成23年9月26日にブログを立ち上げてもらい、
今日に至っています、基本、毎日更新を心がけ
ほぼ達成してきました。
タブレットのお蔭で遠方に出かけても更新が可能になりました。
所要時間は20分と決めてそれもほぼ守ってきました。

昨日のブログで1200の文章が並びました。
若いころ、もちろん学生のころに日記をつけた記憶があります、
一応、世間並みに交換日記なるものも経験しました。
しかし、毎日とはいかず、自分でメモ程度に書き留めたものも
長続きしませんでした。

読んで下さる方の顔もほとんど見えないブログですし、
文字ばかりの退屈なものです。
それでも時々コメントをいただきます。
「?」「明美」「9ちゃん」「ゴウダイ」「anna」「さあちゃん」
「ただ」「N」「森の妖精」「風」「酒屋の嫁」「りんごうさぎ」
「出た出た」「あほ」「爺爺の手習い」「あさ」「ふしぎのくにのアリbaba」
「プーちゃん」「吉祥」「夢想花」「リンダママ」「あれは?」
「沖縄は」「ふわり」「浦安より」「キューちゃん」「ヒマワリ」
「10年ぶりに帰ってきたクマさん」
敬称を略しまして申し訳ありません。

これまでにコメントをいただいた皆さんです、励ましていただいたり
元気づけていただいたり、望外のお褒めの言葉をいただいたり、
時には厳しい指摘もいただきました。
日付が変わると同時にアクセスしていただく方もあります。
まるで示し合わせて競争をしているようで・・・・・。
読んで下さる方やコメントまでいただく方、そんな方々に支えられて
励まされて、ここまで続いたと実感しています。
心から感謝しています、ありがとうございました。

読み書きそろばん、と言う言葉があります。
読む癖は以前にも書きましたが小学4年の6月に溶連菌に感染し
急性腎臓炎にかかり、学校を休むことになり、図書係の先生が
何冊かの本を定期的に届けていただいたのがきっかけでした。
じっとしていることができない悪ガキが病気で安静、外出もダメ、
そんな状況にいきなり置かれて、することがない。

そんな時に本が届いたのですが、本とは無縁でしたので読む気も
ありませんでした、何度か読まずに届いた本を返した覚えがあります。
それでも、こちらの意思とは関係なしに本が届きました。
それでつい・・・・・ページをめくった。
これが読むこととの出会いです。

書くことは話すことより好きです、ですからブログを打つのも苦になりません。
議員と言う仕事なのに話すことより書くことが好きだというのは、
おかしなことだと思われるかもしれませんが、事実は事実です。
お断りしておきますが、決して名文や美文が書けるわけではありません。

これもきっかけがあります、文通です。
3年余りで150通くらいの手紙を書いたでしょうか。
下書きをして推敲の繰り返し、緊張しながら1字1字、書いていたのを
覚えています、この推敲の繰り返しで鍛えられた気がします。
もう40年以上前のことです。

続くという字は糸を売ると書きます。
細い糸が今でもつながっているのが不思議であり嬉しい、それが実感です。
ご縁があるということは、細い糸を連綿と紡ぐことかもしれません。
日の出や日の入りは大津とは20分くらいの差があると思います。
そんな距離感も「今」がある原因かもしれません。

で、そろばんは・・・・・。
子どものころから家には商売柄五つ玉の大きなそろばんがありました。
廊下でそろばんの上に乗ってローラースケートまがいのことをして
遊んだ記憶がありますし、長男だから後継ぎと決められ、
商業高校に進学し、そろばんの授業もありましたが。

どうも、苦手です。
そろばんより暗算の方が得意かも知れません。


  
Posted by いとう茂 at 14:00Comments(0)

2015年01月23日

だんだん似てくる父はもういない

 

親父が亡くなって3回忌の前に書いたものです。
20年と言う歳月は・・・・・・。
徐々に止まったままの、親父の年に近づいていきます。
私はこんなに元気なのに、親父はいつも何かの病魔と
闘っていました。

親父が60歳の時は私は32・3歳。
胃がんの手術をしたころだったでしょうか。
滋賀医大に入院していました、おふくろが行きはJRとバスを乗り継いで、
帰りは私が時間を見計らって迎えに行くと言う毎日でした。

親父のポマードもいつの間にか私が使い切りました、
使い切って新しい物を買っていないということは、私の髪の毛も
徐々に減り、細くなったということです。
死んだ人のことをいくら考えても二度と戻ることはありません、
残された者が精一杯生きることが供養だと思い今日まできました。

オットセーだったかアザラシだったか忘れましたが、生まれて1週間で
親は子どもを捨ててどこかに行ってしまいます、自然界で生き残る
知恵なのかもしれませんし、繁殖目的で生まれてきた犬や猫は
親の顔が見えるか見えないかの時期に親と離されてどこかへ行きます。

水槽で増やしたメダカも増えすぎると、どこかの家に貰ってもらう。
親と長く一緒に暮らせるのは自然界では人間くらいかもしれません。
これは人間が一人前になるまで時間がかかるからだと聞きましたが、
そう思って自分を納得させるしか・・・・・。

「父のポマード」

父は、桜の花の咲く頃に、母と私と弟に看取られて静かに本当に静かに
息を引き取った。
その顔は、この25年余の間、多くの病と闘い続け、
勝つことも敗れることもなく、父の成厳を保ったまま毅然と黄泉の国へと
旅立ったのだと信じさせるのに充分な穏やかな顔だった。
 
私が小さい時から仕事や地城の役に追われ、
決してマイホームバパとはいえない父だった。
それでも、正月になると伏見稲荷か動物園 に連れてくれ、
その後、高島屋か大丸で玩具を買ってくれた。

昼は、大食堂でお子様ランチか 海老フライを食べさせてもらった。
そして、締めくくりに出てくるアイスクリームソーダは格別の味だった。

食事の次は屋上の遊園地だ。
10円入れて見る望遠鏡からの景色は、私と弟にしばしの間、
鳥の視野を与えてくれたし、グルグル回るワイヤー付きの飛行機は、
にわかパイロットにしてくれた。

ディズニーランドやハウステンボスより夢があったように思う。
帰りは京極から三条駅まで歩いて帰るのだが、
京極に入った所に漢方薬の店があり陳列ケースでマムシが
トグロを巻いていた。

左右に土産物の店が並ぶ京極を出る頃になると、
疲れてどうやらグズついていたようだ。
三条からの京阪電車の中では、ウトウトするのが例年のならわしになっていたが、
いつも私を現実に引き戻す匂いがあった。

それが、父のポマードだと気付いたのは随分してからだった。
「おとうちゃん、何かくさい」口には出さなかったが、
普段からそう思っていた。
そういえば、動物園で撮った写真の父の髪はきれいに整っていた。
おそらくドライヤーなんてなかっただろう、髪にポマードを塗込み手で押さえ
櫛で分け目をつくりまた押さえる。
その繰り返しの成果があの写真だったのだ。

後年、父の髪も薄く柔らかくなったので、あまりポマードも減らなくなった。
父母のどちらに似たのかは知らないが、剛毛の私は寝グセがつきやすい。
頭を洗って乾かさずに寝てしまった翌日には必ず引力に逆らって髪が上を向いている。
いくらリキッドで湿らせても、ドライヤーをかけても直らない。
蒸しタオルで押さえればいいのかも知れないが、無精者でそんな気にもならない。

ある日、逆立ちしている髪をおさえていて、ふと、ちっとも減らない
ポマードのことを思い出し、手に延ばして髪につけドライヤーで押さえたら
うまくいった。

ムースやジェルもあるけれど寝グセはポマードに限る。
そう思わせるだけの説得力のあるポマード、
父が今もいるような気にさせてくれる。
匂いだけは受け入れがたいと思いつつ、
ついつい手が伸びる。

子は親の背中を見て育つというが何となく理解できそうな気がする。 97, 1月

今日は午前中は政策検討会議でした、いじめの防止条例の検討です。
2月通常会議において改正案の上程を目指しています。
結構、議論があり座長はまとめるのに大変だと思います。
  
Posted by いとう茂 at 12:31Comments(0)

2015年01月22日

残酷な生き物・・・・人間。

広島の原爆で亡くなった方は正確にはわかっていませんが、
14万人と広島市では推計しています、長崎の原爆では、
約7万4千人の方が亡くなっています。
第二次世界大戦の日本人の死者は朝鮮、台湾の
軍人、軍属を入れて310万人と厚生省では発表しています。

天下分け目といわれた関が原の合戦の死者は正確ではありませんが、
8000人という数字があります。
日本国内での最後の内戦である戊辰戦争の死者数は8400人余りとも
13,500人余りとも言われています。
関が原の合戦や戊辰戦争を実際に経験したわけではありませんので、
詳しいことはわかりません、もちろん第二次世界大戦や原爆のことも
知りません。

平成7年の阪神淡路大震災の死者は6434名と不明者3名、平成23年の
東日本大震災は関連死も含めて15889名と不明者2594名との発表が
あります。

大自然の猛威で亡くなられた方よりも人間同士が殺し合いをした
戦争の方が亡くなった方は圧倒的に多いのです。
冒頭の広島の原爆は14万人、長崎は7万4千人、アメリカが
この二つの都市に投下した原爆は広島はウラン型で
長崎はプルトニウム型と種類が違います。
一瞬ですべてを焼き尽くし多くの命を奪った原爆。

沖縄や硫黄島での戦闘も終結し制海権、制空権はアメリカ軍が握っていました。
戦争の早期終結だけなら、わざわざ種類の違う原爆を投下する必要が
あったのでしょうか、日本はある種モルモットのように考えられて
いたのではないでしょうか。
個人的な見解ですが、アメリカはキリスト教の国と言う印象があります、
自由、平等、博愛がその精神ではないのか。

博愛とは人間をモルモットだと考えて殺すことか。
随分昔ですが、そう思い、一人怒りを覚えていました。

残酷な者、それは人間。
残酷な心はすべての人間が持っているのかも知れません。
慈悲の心をすべての人が持っているように・・・・。
慈悲の慈とは苦を抜くということで悲とは悲しみということではなく、
楽を与えるということです。
つまり、慈悲とは苦を抜き楽を与えるということです。

残酷の酷とは、度を越して厳しいさま。思いやりがなくむごいさま
残酷とは無慈悲でむごたらしいこと。まともに見ていられないようなひどいやり方のさま。
こっちは調べました。
残酷と慈悲はどうやら対極にあるようです。

大自然の猛威で破壊された人の心やまち、ハード面での復興が進んでいない
地域が東北にはまだあります、ハード面だけでなく心も含めて
慈悲の心で復興に当たっていただきたいと思わず願ってしまいます。

世界で唯一の被爆国、それも実験台になった国、日本。
そうした経験がある国の人間だからこそ、余計に慈悲の心を
大切にしてほしいと思うのは私だけではないでしょう。

今日は午後から多忙です、1時から北消防署の視察があり、
3時30分から教育厚生常任委員会と総務常任委員会で
大津市の教育振興基本計画について審議があります。
それが終わり次第、総務常任委員会、7時30分からは
ピアザで9時まで会議です。

午前中は議員とは関係ないのですが、来週の28日に
琵琶湖ホテルで和太鼓の演奏をしますので、それの打ち合わせでした。
出演の機会が増えたので練習にも身が入ります、
昨夜も練習でしたが、久しぶりに大太鼓を叩き途中で息が上がり
かなりハードでした。
それでも心地良い汗をかき、気分転換になります。

こういう緩急、静と動と言ったメリハリが私には時々必要です。
  
Posted by いとう茂 at 12:32Comments(0)